カラット

2022-11-22

夜の心臓 前の話|次の話

 朝から八百一回目の雷が空を灼いた。
 慈雨などには程遠く、呪いの如く雨が降り注ぐ。実際呪いに違いない――草も家も性根も世界も、残らず腐らせてしまうのだから。
 あたしは腐っている。この世界も腐っている。

 だから、生きてやる。

 まともな人間なんていない路地裏で、幾度目とも知れない死への覚悟を抱きながら、あたしは誓った。


 雨が降る。寒い、痛い、気持ちが悪い。だのに体温も煤も流してしまうこいつらでさえ、糞溜めの悪臭は流せないらしい。生ゴミ、塵芥、廃棄物、割れたガラス、粉々の骨、爛れた腐肉、汚い、汚い自分。すぐ横には、まだ新しい誰かの死体が転がっている。全身を襲う痛みと胃液の逆流さえ収まれば、持ち物を漁れるのだけれど。

 薬。そうだ、確かまだ住処に、部屋とも言えない倒壊しかかったあの廃屋に、いくつか予備が残っていたはずだ。僅かな希望を目指して前進した足は、しかしすぐに縺れた。昼飯の毒が頭に回ったのか、頼みの脳すら、その回転を着実に遅くしていく。倒れた衝撃も、ぬかるんだ路地の冷たさも、全てが他人事だった。それでも、心臓は生を求めることを止めない。あたしを鼓舞するように、鼓動が鳴り響く。止まるな、動け、這いつくばってでも良い、生きろ、生きろ、生きろ!

 不意に体を突き刺す冷たさが消えた。藻掻いて伸ばした手が、硬くざらりとした、革で出来た何かを捕らえた。誰かのブーツだ。重い顔を上げる。
 そこには、女神がいた。七色に輝く髪、透明感のある肌、雪のようなローブに飾られた、美しい女神が。

 嗚呼、お迎えってやつか? 思わず乾いた笑みが零れた。彼女は、あたしに向かって滑らかな美しい手を差し出した。


 目を開くと、暖かく、何か途轍もなく柔らかい物の上に寝かされていた。がばりと身を起こす。何だこれは。自分の体が沈む程柔らかい。それでもって、四方は布、それも金属のような光沢の、いかにも金持ちが好みそうな物で囲まれている。

「起きたのです?」

 布のうち一枚が開き、その裏からさっきの女神が現れた。

「……何だこれは」
「ベッドなのです」
「そうか、いやそうじゃなくて」

 布を乱暴に掻き分けて、小部屋のような大きさのベットから出る。その瞬間、光。一言で言ってしまえば目が潰れるような光があたしの目を貫いた。
 眩く輝くシャンデリア、艶のある本棚に一糸乱れず並ぶ革装丁の本、硝子張りのテーブル、金の流麗な装飾が施されたいくつもの陶器。極めつけは、いつの間にか着せられていた、フリルの沢山付いたワンピース。

「……何だこれは……」

 女神が大真面目に一つずつ説明する声は、もはや聞こえていなかった。

 彼女が部屋の全ての物を説明し尽くす頃には、この状況について問いただす気力も無くなっていた。適当に座ってください、と言われ、とりあえずその場に腰を下ろす。

「床は適当過ぎるのです」

 椅子に座った彼女が困ったような顔でこちらを見る。確かに座れるところは他にもある。ベッドだとか、アンティークにしか見えないもう一つの椅子だとか。それらに座るのに気が引けるのは、貧乏人の性だろう。いや、それを言ったら今座っているカーペットだって、とんでもなく高価そうだけれども。
 もっとも、真面目に考えれば失礼には違いない。あたしは立ち上がると、椅子の所まで歩いて行って、触った瞬間に砕けたりしないか不安になりながら、ぎこちなく腰を下ろした。彼女は満足そうに微笑むと、いつの間にか淹れていた紅茶をあたしによこした。

 さて、どうしたものか。ここはどこなのか、何故あたしを助けたのか、こいつは誰なのか、そもそも自分は生きているのか、あと何でこんな趣味の悪い服を着せられているのか。大小様々な疑問の答えを探して、あたしは彼女の目を覗き込んだ。
 見れば見る程不思議な少女だ。絡まることなく腰まで伸びた髪も、零れ落ちそうなほど大きな目も、常にその色を変えながら輝いている。青かと思えば緑、次の瞬間には赤。それでいて、それらそのものに色があるようには見えない。強いて言うなら、まさしく透明、あるいは……金剛石、だろうか。険峻な山から削り出した最も美しい金剛を、引き伸ばして、或いは面を面だと認識できないくらいまで丸くカットして、人形を飾り立てたような。色が薄く滑らかな肌には傷も砂粒程の出来物すらなく、益々人間離れした雰囲気を醸し出している。来ている純白のローブも、展示品のようにシワ一つ無い。

「あたしを助けてくれた……で合ってるんだよな。礼は言うけれど、説明してくれないか」
「はい。あちらにあるのがですね」
「物の紹介はもういい。この状況だ」
「あ、はい。簡潔に言いますと――」

 彼女は大したことでもないという風に言った。

「私を殺して欲しいのです」

 ごとん、と鈍い音が響いた。あたしの手から滑り落ちた紅茶のカップは、カーペットが衝撃を吸収したのか割れずに済んだらしい。しかし高級品を落としたことも、美しい模様を覆っていく染みも気にならなかった。

「あんた今、何て……」
「私を殺して欲しいのです」

 正気か、と呟く。彼女の目はとても冗談を言っているようには見えなかった。

「……どうしてそれをあたしに頼む。あたしはあんたが死のうが生きようがどうでもいい。が、頼まれても誰かを殺せば罪になることくらい知ってんだろ」
「死なせてくれない人たちがいるのです」
「……良い事じゃないか」

言葉の中に何かを感じ取ったのか、彼女は伏せた目でこちらを見ると、ぽつりと「良くないのです」と言った。

「それに、あなたにとっても悪い話ではないのです」
「あんたを殺すのがか?」
「はい」

 そうして、彼女は、あたしの顔を見据え、信じられないことを言った。

「アインス=サングレ。第八の節、二十四日生まれ、現在十七歳、『一カラット』。第二通りで育つも、八つで捨てられ浮浪児となり、現在はこの神器研究所で雑用係と毒見係をしている。違ったら言って欲しいのです」「いや、合ってるよ……どこで調べた」
「人の口に戸は立てられないのです」

 考えたくもない事まで言いやがって、と唇を噛む。胸部の縫合痕がずきりと疼いた。俯けば、テーブルの傷一つ無い硝子面に、右半分が赤黒く変色したあたしの顔が映る。

「このままこの仕事を続ければ、数年もしないうちにあなたは死んでしまうのです」
「連日毒にあたっていれば、いつ死んでも驚かない。そんなことより、何故そこまで調べた」
「あなたが毒見をしたご飯を食べているのは、私なのです。私が原因で、あなたがそんなことになっているのです」
「だとしたら、罪滅ぼしってやつか? あたしが犯罪者になることが? 随分と冗談が下手なんだな」

 彼女は瞬き一つせずに、あたしの顔を見ていた。傷ついたようにも、怒りを覚えたようにも見えず、ただただ、あたしを見ていた。濁ったあたしの眼の中に、何かを探そうとしているように。

「あなたの欲しい物を、私の物なら、何でもあげるのです。高価な物でも、貴重な物でも、何でも」
「……本当に何でもか」

 彼女は神妙な顔で頷いた。あたしの頭で、望みとリスクが天秤にかけられ、すぐに傾いた。手を伸ばし、彼女の左胸を指す。

「それを寄越せ。そしたら受けてやる」
「……? こっちの服の方が好みでしたか?」
「違う。確かにこれよりはマシだけど違う。あんたの、『重さ』を寄越せ」

 それを聞くと、今まで表情の乏しかった彼女の顔に、微かな影がよぎった。良い物でないことは確かだが、気にしてやる義理も無い。数秒思案した後、彼女は絞り出すように言った。

「……分かりました」

 『何でも』と言っていた割には歯切れの悪い返事だった。

「嫌なら話は無しだ」
「いえ。何の問題も無いのです。……ただ、もっと使える物はあると思うのです」
「いらない」
「……そうですか。では」

 彼女はすい、と目線を壁の一角に向けた。隠し通路でもあるのか、と思ったあたしの前で、壁は一切の力を受けることなく粉々に砕け散った。
 唖然としたあたしに、彼女は何事もなかったかのように言う。

「ここから出るのです」


 この国には、休むことなく雨或いは雪、それと雷が降り続けている。世界の端にあることが原因らしいが、それが分かった所で、問題は解決しない。
 食料も土地も無いのだ。連日の雨で、屋外の作物はあっという間に腐ってしまう。屋根と人工光源を設置した農業施設で土地は埋まり、住居を構える場所は無い。飯も家も増やせないのに、人は存在するだけで増えていく。
 最初の二百年で対策は尽き果て、追い詰められた政府は、苦肉の策、「カラット制度」を打ち出した。

 命に価値を付ける。

 資源にもさして恵まれなかったこの国では、元から命を選別することに抵抗は少なかった。その上、ある学者が人間の体内に動力となる器官を発見してしまった。

 伝わっている話だと、そいつは死人を解剖した際、肋骨の間に小さな宝石のような物が嵌っているのを見つけたらしい。しかも一人ではなく、幾人にも同じ物が、違う大きさで存在していたそうだ。学者の性分なのか、国中から死人を集めて実験をした。そして、それが動力源となる事を突き止めた。
 光る。熱を発する。機関を動かす、もしくは自ら動く。
 その機能は、石が大きい程優れている事、石の大きさはある程度遺伝する事、体の成長によって石も大きくなる事、それが判明するのにそう時間はかからなかった。
 何もかも無いこの国では、これ以上の資源は無かった。そしてそれの確保には、人が生まれ、成長することが不可欠だ。しかし、人が増えても、養えないのがこの国だ。
 ならば、効率化すればいい。より優れた資源を、石が大きい人間を選別して、その人間達のみが生きて子を成せば、より少数の人間でより多くの資源が手に入る。

 そして、生まれた子供の胸を切り開き、石の重さを量るようになった。

 「重い」人間は、いくらでも上等な教育を、綺麗な家と美味い飯と明るい未来を得られる。が、「軽い」と烙印を押された命は、さっさと死ねとばかりに、仕事どころか、まともな教育すら得られない。どこかで野垂れ死ぬか、なりふり構わず生きるしかない。ついさっきまでのあたしのように。

 そんな国の形が続いて、もうすぐ三百年になる。


 雨は変わらず降り続ける。適当な店で揃えた、いい感じに古い服を着て、あたしと少女は路地を走り抜けた。その後ろを、店を出た瞬間に襲ってきた、黒いローブを着た五人が追う。その中のニ、三人は最近国が研究しているという兵器、銃まで手にしている。家の人間が彼女を死なせまいとしている事は聞いたが、家を出ただけでこれは過激すぎるんじゃないか? 
 そう聞いても、答えは無い。そもそもすぐ横を走っていた彼女の姿が無い。速度を緩めて振り向けば、彼女の姿は家一軒分程後ろにあった。古着ごときでは超俗した雰囲気を隠し切れない彼女の顔は、絵の具を原液で塗りたくったように真っ赤に染まっている。温室育ちの人間には、たった数分の全力疾走でも堪えるらしい。
 立ち止まったあたしに息を切らしながら追いついた彼女を、脇に抱えて再び走る。思いもよらなかったであろう行動に、彼女が悲鳴を上げた。

「ど、どこにこんな力があるんですか!」
「腕に。それより、武器とかないのか」

 あたしの問いに、気まずそうに彼女は目を逸らした。しかし、それは己の準備不足を後悔しているというよりは、手段があるのに使わない後ろめたさなのだろうと、この状況で妙に焦りの無い彼女の顔を見て思った。
 背後の奴らとの距離は、この問答の間にも縮まっていた。あたしが人一人抱えているのが原因なのは明白だ。銃の射程に入っているはずだが、あたしはともかく、彼女に当たるとまずいからだろう、撃ってこない。しかし、このままいけば捕まるのは火を見るよりも明らかで、何ならその前に袋小路に入り込みかねない。

 ……仕方ないか。

 あたしは角を右に曲がると、全力で回転させていた足を止めた。驚く少女を近くに放り出し、手近な外壁から板を一枚拝借する。メリメリメリ、と嫌な音が響き、それに混じって、彼女が何をする気かと尋ねた。背中を向けて、一言答える。

「底辺を舐めんな、って事だよ」

 言い終わるや否や、あの黒ずくめ達が角から現れた。待ち構えていたこちらに意表を突かれたのか、動きを止めた先頭の人間の前頭部に木材を振り下ろす。崩れ落ちるそいつの後ろにいた奴の腹を突く。大慌てで銃を構えた三人目の懐に潜り込んで、顎に頭突きを喰らわせる。力の抜けた手から銃を奪い、狙いの付け方も分からないがとりあえず撃ってみる。
 弾は偶然にも残りの二人の間を駆け抜けて壁に衝突し、木片を散らした。その威力を恐れるように二人は脇道に隠れる。呻き声をあげながら起きようとしたさっきの三人のどれかの後頭部を銃の持ち手で殴打し、使い方もよく分からない鉄の塊で威嚇しながら少女がいた場所まで戻る。
 人通りの多い場所に行けば、こいつらもおいそれと襲いかかれないはずだ。大通りを目指そう。魂を抜かれたような顔の彼女にそう言い終わる前に、右足の甲に鋭い痛みが走った。見ると、最初の一人が地に這ったままあたしの足にナイフを突き刺している。刀身はぬらぬらと光っていて、何かの液体、恐らく毒が塗ってあるのだろう。傷口の周囲がひりついた。

 その後にどんな結末が訪れることを予想したのかは知らないが、フードの隙間から見える口は確かに笑っていて、すぐにぽかんと開いた。
 銃身でそいつの頭をもう一度殴り、気絶させたそいつの手とあたしの足からナイフを抜いて、行くぞ、と少女に目配せを送る。
 走り出すとすぐに右足の痛みが脳を突き抜けたが、しょっちゅう毒にあたっていたのに比べれば、まだましというものだ。あの日々のおかげで、今毒付きの刃で刺されても走れているのは、何の皮肉だろうな、とぼんやり考えた。
 倒れた仲間の手当てをしていたのか、残りの二人は追いかけて来なかった。


 こちらを不審がる車掌に運賃を払い、痛む足に適当な布を巻きつける。ついでに周囲からの好奇の目も痛い。ただでさえ肌のあちこちが変色して血の滲んだ靴を履いた人間とこの世の物とは思えない美しさを持つ少女が、発車間際の列車に駆け込んできたのだ。
 その上この少女が、車内を物珍しげにふらふらと見て回った挙句、他の乗客、それもどこから流れてきたのかもわからない民族風の服を着た商人から箱ごと買い取った、見慣れない菓子をもう十分も眺め続けている。正直穴を作ってでも入りたい。
 この怪しい物体を食べるべきか食べないべきか、食欲と理性の狭間で行ったり来たりしているのであろう彼女の顔を見ていると、不意に「彼女は一人であそこを出られたのでは?」という、当然の疑問が浮かんだ。菓子でこれだけ悩んでいるところを見ると、単純に見た目より子供なだけかもしれないが。
 箱から菓子を一つ取り出し、特に躊躇もせず口に放り込む。甘い流体状の何かを茶色い生地で包み込んだ丸い菓子は、少女が躊躇っていた間に乾燥してしまっていて、口の中の水分をあっという間に奪っていった。
 一方、驚いてこちらを見る少女。得体の知れない物体を、あたしが迷いなく食べたからだろう。

「……毒も、特に変な味も無いな」

 それを聞いて、少女も恐る恐る菓子を口に入れる。白い歯が生地に食い込んで、とろりとした液体とも個体とも判別しにくい物体が舌の上に流れ出ると、彼女の目が零れ落ちそうなくらいに開かれた。

「美味しいです……!」
「そうか」

 一度抑制が取れると、少女は次々と茶色い球体を口に入れ始めた。一つ一つに大袈裟なくらいに幸せそうな顔をするのだから、食われる菓子も幸せだろう。
 この部分だけ見ていると、十かそこらの子供みたいだな。そう思っていると、彼女は満面の笑みで菓子を一つ差し出した。差し出す真っ白な手と、それを受け取る古傷だらけの赤黒い手の対比は酷く鮮やかだった。
 噛んだ菓子は、毒見をしていた食べ物よりも自然な味で、やはり口の中を乾かしていった。


 彼女があたしに一緒に来てくれと頼んだ理由は、さっきの追手に対する用心棒としてではなかったらしい。冷静に考えれば、十分な飯も食えない人間が戦えると考える人間は確かにいないだろう。が、彼女があたしを頼った原因は、それより更にとんでもなかった。

 彼女が、切符も知らない程の世間知らずだったからだ。

 到着した駅で、とにかく北へ行きたいと言う彼女に北西の都市へ向かう列車の切符を握らせると、彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。表を見て裏を見て、挙句照明に透かし始めた彼女に、呆れながら言う。

「……あんた幾つ」
「十八なのです」
「倍にして申告してないか?」

 頬を膨らませて抗議する彼女を引き摺って地図の前に連れて行く。どこに行きたいんだ、と訊けば、彼女は茶色と青で彩られた図をどう見ていいのかわからないらしく、視線が右往左往している。

「……上が北、右が東で、朝に少し明るくなる方だ。で、左が西で、夕方に明るくなる方。下は南で、昼に明るい方。中央の大きい青色が全部海で、浮かんでる茶色は、他の国の土地。……海は分かるよな」
「水が沢山あるところなのです」
「……まあ、そうだな。で、それを囲んで一周してる茶色いのが陸地で、この国だ。で、あたし達がいるのがここ」

 茶色い円の上部、円周形のこの国の、東端から少し西に行った場所にある赤い点を指さす。南にはあたし達が住んでいたこの国の首都、北東にはこれから向かう都市がある。更にその東には、この国の外側、ひいては人類が住む領域の外側をぐるりと囲む屹然とした山脈、「月の山脈」がある。

 そして、少女が示したのはまさにその山脈だった。

「ここに行きたいのです」
「冗談だろ?」

 この国の、何なら世界の端だぞ? そう言っても、例によって、彼女の顔は大真面目だ。

「……列車は、この都市から更に町二つ分までしか繋がってない。そこもかなり端だけど、そこから山脈まで行くと……馬で三日、歩きならもっと。行くからには、登るんだろ? だとしたら、もう何日かかるかなんて見当もつかない」

 下調べなんて何もしていなかったのか。あたしの説明を聞いて、彼女は酷く驚いた顔をした。そのくらい調べて来い、と諭すと、彼女は静かに首を振った。

「……何で、そこまで知っているのです?」

 何かおかしいか訊こうとして、はたと気付いた。心臓に泥水でも流されたような気がした。

「一時期、駅でも暮らしてたんだよ。それに、雑用の毒見係でも、本は読めたからな。勉強した」

 投げやりにそう言えば、少女は合点がいったように首を大きく縦に振った。尚も何かを言おうとして口を開く彼女。しかし、あたしはこれ以上話を続けまいと、屋台が立ち並ぶ外へ向かった。

 それから一日、あたし達は列車に乗り続けた。一、二度他の駅に停車して、夜は揺れる車内で椅子に寝転がって過ごした。雨も雷も、変わらず降り続けていた。列車の椅子は、寝るのに快適とは到底言えなかった。しかし、雨風が防げて穴の開いていない布が敷かれている分、自分の部屋よりはマシだった。彼女は少し辛そうな顔をしていた。
 その間に彼女が話した事と言えば、自分の名前―—ノインというらしい――と、昨日乗った列車、あの列車の線路沿いに、線路が出来る前、あそこ一帯が川だった頃に住んでいたこと、あとは食べ物とあたしと停車した駅についての感想と質問だった。
 あたしが話したのは、質問の答えと、適当な相槌と……それだけだった。毒見係の話と、家族の話は、訊かれても無視した。少し、やり過ぎだったかもしれない。さすがに彼女も落ち込んでいたが、数十秒後には、何事も無かったように駅で買った菓子を食べていた。
 毒見の話はしなかったが、どうしてあの時刺されても平然としていたのかだけは答えた。連日毒にあたって、いつの間にか弱い毒ならほとんど効かないくらいの耐性を持っていたからだ。路地裏の治安が最悪な事など火を見るより明らかだし、そんな場所だから喧嘩にも慣れていた。
 そう話すと、彼女は同情と罪悪感とがごちゃ混ぜになった顔をして、そうですか、と言った。


 そして、乗り続けて二日が経った夜、列車は目指していた都市に着いた。久しぶりの外は、勿論雨と雷付きだが、解放感があった。ノインは慣れない列車の旅を続けたせいか、あまり元気がない。あたしも、ひどく体が重い気がする。しかし、次に乗る列車は、明日の朝に出る。
 まだ昼過ぎなのに、何で列車はもうないのかと、ノインは不満げだったが、列車の数が少ないから、追手があたし達を追うにも時間がかかるだろうと言うと、納得したのかすぐに彼女の関心は他に移った。
 食事と宿をどうしようかと言う彼女に、「宿だ」と言って腐りかけた廃屋を指さしたら、顔の筋肉を限界まで使ってしかめっ面をされてしまった。
 嫌に決まってます! とふくれっ面をした彼女の機嫌は、通りに立ち並んだ沢山の店を見ると、あっという間に治った。菓子屋、定食屋、それから酒場も。よりによって酒場に入って行こうとするので、「お子様にはまだ早い」と止めると、彼女は再びむっとした顔で他の店を覗き始めた。

 再び歩き出すと、並んだ店の中で、一つだけ、他と違う雰囲気の店が視界に飛び込んだ。荘厳……違うな。厳粛、だろうか? 他の店と外観が大きく違うわけでも、屈強な門番がいるわけでもないのだが、何故かその店の背後には個人じゃない何かが控えていそうな雰囲気。
 が、彼女はそんなことにはお構いなしにその店に突撃した。お邪魔します、と可愛らしい声と共に、彼女が店の扉を開く。あたしも遅れて店に入る。誇り一つ無い店内と、前触れもなく飛び込んで来た美少女に挨拶すらできず固まった店主、その前に陳列された商品を見て、あたしはあの近づきがたさの理由を悟った。
 ガラスのケースの中にずらりと並んだのは、綺麗にカットされた数百もの宝石だった。左は小さい物、右は大きい物。列がいくつか集まった組が三、四個。そして、それぞれの組の前に、「発熱」だの、「駆動」だのと書かれた木板が、値札と共に置いてある。挙句、「商品多数入荷につき、○日から十日間値下げいたします」なんて紙まで。
 それに気付いて不思議そうな顔をした彼女を、店主には失礼だと思いながら店の外に引き摺って行く。何でですか、と不服そうな彼女を、人に聞かれなさそうな、通りの端まで連れて行く。

「さっきの店が何を売ってたか、分かったか」
「宝石ではなさそうな事しか分からなかったのです」

 聞こうとしたのに何で止めたのです、と恨みがましい彼女。あたしは何も言わずに自分の心臓の辺りを指さした。一瞬きょとんとした彼女は、すぐにその意味に気付いて言葉を詰まらせた。その顔は驚愕から幼い怒りへと変わる。

「そんな……どうして、あんな、あんな形で、平然と売っているのですか!」
「それがこの国だよ」
「『それが』では無いのです! 曲がりなりにも、人の体ですよ! しかも、『商品多数入荷』なんて、そんなの……!」

 あの光景のどこがそこまで彼女を怒らせるのかは、道徳なんてものに関心のないあたしでも分かった。
 あの宝石一つ一つは、全部死人の体から取り出した物だ。死んだら、燃やして、残った骨の隙間からあの石を取りだして、等カラットの物を集めて、加工して、値段をつけて売りさばく。

「……それが、カラット制度だ。三百年もあれで国が続いてるのに、今更人道なんか叫んだってどうしようもない」
「人道なんか、じゃないのです! だって、『商品が増える』ことは、『その分誰かが亡くなった』という事でしょう! そんなことを平然と書いて、人の死に値段を付けて、それを好きなように下げたり上げたり……何で、アインスは、この国の人達は、それを見て何も思わないのですか!」

 まくし立てた彼女に、あたしは一言、「思ったってどうしようもないからだ」と告げた。彼女の目が外れてしまいそうなほど見開かれて、そこから大粒の涙がぽろぽろと落ちた。どういう訳だかあたしの心臓まで痛くなってくる気がして、何か食べ物を買ってくる、と逃げるように菓子屋に走った。

 何でもいいから甘いのを山ほど、と店員に頼むと、店員は驚いたが、気を取り直したようにいくつかおすすめの商品を棚から取り出して、これでもよろしいですか? と尋ねた。頷くと、店員は箱にそれを詰めながら、最近石の値段が高くって、とか、街の隅にあるあの店では比較的安く買えるんですよ、とか、にこやかに世間話を始めた。適当な相槌を打ち続け、気付けば会計は終わっていて、あたしは礼もそこそこに店から走り出した。さっきの石屋の前を、ただ足元だけを見て駆け抜ける。
 その後方で、少し前の飢饉のおかげなのだろう、あそこの店主が大量の在庫とセールを叫ぶ声が、店に近付く人々に吸い込まれていった。


 大量の菓子を見せても、通りの定食屋に入っても、テラス席に座っても、ノインは笑顔を見せなかった。漸く表情が緩んだのは、頼んだ大盛りの魚介スープを半分ほど胃に入れた後だった。やっぱり食べるのは好きなんだな、とあたしもスープを啜る。彼女はもう全部飲んでしまって、おかわりを頼んでいた。まだ食うのか、と呆れると、彼女はむくれた顔で美味しいのが悪いのです、と言った。
 魚がたっぷりと入った、というよりも魚しか入っていないこれは、確かに庶民の感覚では美味くはある。だが、つい数日前まで毒見をしていた料理を思い出すと、到底敵わないというのがあたしの感想だ。しかも、つまみ食い程度の量しか食べていないあたしと違って、彼女はあれを毎食腹一杯摂っていたはずで……それとも、列車の菓子と言いこれと言い、素朴な味の方が好みなのだろうか。
 そんなことを考えながらもう一口。出されたばかりのスープは、舌を火傷しそうなくらい熱い。

「……で、宿はどうする」
「ちゃんとお店に泊まるのです」

 ぼろ家を「宿」と言った事をまだ根に持っているのか、彼女は食い気味で言った。既に辺りは暗くなりかけ、街灯と絶え間ない稲光が薄暗がりの中で白く輝いている。あの街灯も、さっきの石が嵌って光っているのだ。そう思うと、今まで感じたことも無い、棘みたいな何かが左胸に刺さった気がした。

「ならどんな所がいい」

 外から目を背けて聞くと、彼女は暫く、うー、とか、むー、とか唸っていたが、やがて背後の崖を指して、

「駅で貰った地図では、あの上に空いている宿があると書いてあったのです!」

 と、この数日で読み方を覚えた紙地図を自慢げにかざしながら言った。さっきまでの不機嫌は、スープが見事に散らしてくれたらしい。

「ああ……そこにしたか……」

 彼女は、宿の記号の近くにある稲光の記号の意味が分からなかったらしい。雷、高台、ついでに人が来ない。それだけ情報があれば分かりそうな気がするが……まあ、面白そうだしいいか。

「分かった。自分で決めたんだから、文句は言うなよ」
「……? はい」

 何でそんなに嬉しそうな顔をしているのですか? と不思議そうにしている彼女は知る由もない。

 あの記号は「避雷塔」。二十四時間雷が降ってくる場所だ。

 怯えるのか、後悔するのか、それとも案外平気なのか。我ながら気持ち悪い程にやついているのだろう。その理由を問おうとした彼女の声は、雷鳴に混じって通りから響いて来た沢山の声に掻き消された。反射的に通りを覗く。遥か遠くで、大きな影が蠢いているのが見えた。それはどんどん通りを近付いてくる。大きな影は沢山の人で、皆一様に穴の開いた服を着て、ぼさぼさの髪を雨で濡らしながら、口々に同じ言葉を叫んでいる。

「カラット制度反対!」
「三百年の悪習に終止符を!」
「道徳と人道の復活を!」

 そんな言葉が、幾重にも重なって、獣の吠え声のようだった。
 人々は揃って通りを過ぎ、また影になり、やがて消えて行った。彼等が向かった方向には、確か役場があったはずだ。
 声に気圧されて沈黙が流れていた店内に、また話し声が戻ってきた。おかわりを持って来た店員が、迷惑ですよね、とあたし達に話しかけた。

「毎日毎日、この通りを汚い格好で大声で歩いて、お陰でこの時間は客がひどく少ないんですよ。夕食時は、うちにとっては一番の稼ぎ時なのに」

 お客さんも驚いたでしょう? と同情するようにこちらを見る。

「でも、この国のせいで、あの人達は困っているのです」
「だからって、皆その制度の中でどうにか生きてるのに、自分達には不利益だからってこっちの邪魔をするんですよ。知ってます? うちの裏手にあるゴミ箱、一時期低カラットの連中が漁ってて、不潔だって誰も寄り付かなくなったことがあるんですよ。屋内に移したからそういうのは減ったものの……ほら、噂をすれば」

 店員はそう言って、店の裏手に回ろうとする人影を指した。

「いつもあいつは台所に入ってきて、『何でもいいから食べる物をくれ』って言うんですよ。そうして、店主から、『そんな物あるか、邪魔だからさっさと帰れ』って返されるんです。それでも居座って、最後には殴られて、しょぼくれて他へ行くんです」

 それは、すぐに現実となったんだろう。店の奥から、微かに怒鳴り声が聞こえた。だが、客も店員も、ちらりとそちらを見ただけで、何事も無かったかのように飯を食べ始める。この店ではそれが普通なんだろう。
 しかし、ノインにとって、それは普通ではなかった。彼女は大きな音を立てて椅子から立ち上がると、厨房めがけて走り出した。素っ頓狂な声を出して驚いた店員を置いて、あたしも後を追う。
 テーブルの間をすり抜け、カウンターに入り、目についたドアを開ける。そこには皿と料理と、いくつもの調理器具が並んでいる。それらの底に嵌った透明な石を見て、こんな状況だが、つい舌打ちをした。
 そして、厨房の奥に、がなり声の主はいた。ガタイの良い、顔にいくつもの皺を刻んだ店主らしき男と、服と布切れの中間の状態になったボロを着た、痩せ細った青年、その前に腕を広げて立つ小さな少女。

「あの馬鹿がっ……!」

 フライパンを手にした店主は、明らかに冷静さを失っていた。大方、青年を殴って追い出そうとした矢先に、ノインが彼を庇ったのだろう。

「子供に何が分かる! とっととそこをどきやがれ!」

 唾混じりの怒りを前にしても、彼女は一切動じず、一言「嫌です」と静かに言った。店主の顔がいよいよ真っ赤になり、振りかぶったフライパンが周囲にぶつかって高い音を鳴らした。衝撃に反応して、底の石が赤い光を放つ。鉄の塊は、少女に向かって振り下ろされた。
 彼女は、きっと目を瞑っただろう。何秒待っても、痛みも何も感じないことに疑問を持ったかもしれない。背後から、驚愕とも戸惑いともとれる微かな声が漏れた。あたしだって、何故なのか誰かに訊きたかった。

 自分の体が、勝手に彼女を守った理由を。

 フライパンはあたしの左腕に止められて、石が発した熱で皮膚を焼いている。気を抜くと歪みそうになる顔を抑えながら、あたしは鉄に引っ付いた肌ごとそれを腕から引きはがした。力の抜けた店主の腕からフライパンを抜き取り、調理台に軽く叩きつけると、それまで赤く輝いていた石は元の無色に戻った。
 三人分の静かな視線を背中に感じながら、あたしはフライパンを水で冷やし、底にこびりついた焦げをこそぎ落とし、もう一度店主の右手に握らせた。彼の左手に食事代を持たせ、ノインと青年の腕を掴んで裏口から出る。
 この世界から見捨てられた青年を守ったことにか、或いはやせ我慢に対してかは分からないが、店主の開いた口は塞がらず、出て行くあたし達を何も言わずに眺めていた。

 人のいない路地を何分か歩くと、黙りこくっていた青年が消えそうな声であたし達に礼を言った。ノインは首を小さく横に振ると、持っていた金の一部を彼に渡して見送った。

「……あんた、お人好しにも程があるよ」
「そんなことは無いのです」

 彼女はどういう訳か唇を噛む。

「今日あのお金でどうにかなったとしても、明日も明後日も、苦しいのは続くのです。それに、さっきみたいに、そんな人達は沢山いるのです。……それから目を背けて、気休めにしかならないことをしているだけなのです」
「じゃああんたに何ができる?」

 彼女は瞠目して、何も答えずに宿へと歩き始めた。あたしも後を追う。雨に紛れて、彼女の独り言が聞こえた。

「……もしこの国が崩れたら、あの人達は助かるのでしょうか……」

 かもな、なんてあたしも独り言を零す。聞こえたのかは知らないが、彼女は振り向くと、あの時庇ってくれてありがとうございます、と、あたしの火傷を、まるで自分が受けた傷のように見ながら言った。他人に心配されるのはどうにも慣れなくて、あたしはひらひらと手を振ると俯いて歩調を速めた。
 雨は相も変わらず降り続けていて、火傷に当たると刺されたように痛い。足元の水溜まりに映り込んだ、口元の緩んだ自分の顔は、宿に着いた時の彼女の反応が楽しみだからに違いない。

 他人の気遣いとか、そういうのが今更嬉しい訳が無い。


 その宿は、雷を動力に使えないか研究しているという偏屈な青年の自宅の二階だった。部屋の状態こそ悪くはなかったが、窓の外は常時輝き、轟音で部屋は何度も揺れ、ついでに下からは青年の研究設備だという奇妙な金属塊が出しているのであろうヴゥゥン――という振動と音。あたしは何もかも慣れっこだが、ノインはそうではないらしい。当然と言えば当然か。
 怯えて耳を塞いで、彼女が慣れた、より正確に言えば、疲れ切って怯える元気も無くなった頃には、時計は十二時を回っていた。
 彼女は二日ぶり、あたしはもう何年振りかもわからないベッドに横たわる。……いや、あたしも二日ぶりか。
 部屋に連れていかれたのがたった数日前だというのが信じられない。いつの間にか彼女の事をだいぶ知っているような気分になっていた。考えてみれば、名前と昔の家と、年齢、あとはどのくらい世間知らずで食べ物好きか、だけだ。
 感慨に耽りながら彼女を眺めていると、彼女の目がこちらを向いた。

「アインス。どうして、あなたは他の物ではなく、『重さ』を欲しがったのですか?」
「気が向いたら、最期にでも教えるよ」

 彼女はしょんぼりした顔をして、数秒黙った後、もう一度口を開いた。

「……さっきの人、あれが、この国の普通なのですね」
「まあ、この街は国の中でも特にああいう、区別……いや差別か? それが酷いからな。もう三百年もこんなんなんだ。生まれて十八だか十九のあんたが気に病むもんじゃない。あんたのせいでこうなってる訳でも無いし」

 彼女はそれに答えなかった。いや、答えようとしたが、声帯がそれを妨げたように、悲痛な面持ちで「私は」とだけ声に出して、それきり本当に何も言わなくなってしまった。

 再びの沈黙が訪れた。それを破ったのは、あたしでも彼女でも雷でも、家主ですらなかった。

 何の前触れもなく窓が割れ、ドアが開かれた。そして、黒いローブを着た人間が何人も入って来た。何が起こったか考える前に、脳裏に追手を恐れていた彼女の姿が映った。
 九年間の路地生活で磨き上げられた生存本能は、何よりも速かった。掴みかかって来た人間に、手元にあったランプの土台を叩きつける。見事に頭に当たりよろめいたそいつの首筋を蹴り上げた。潰れた蛙のような声を無視し、二人目は備え付けられていた小さいテーブルで殴り倒す。そのまま三人目。
 背後に一人回っていたことに気付かなかった。首を絞められ、背後から「動くな」と声がした。

 どん底をなめるな。

 手足は動く。声から考えると、こいつは男だ。あたしはそいつの股を蹴り上げた。情けない悲鳴と共に、締め付けていた腕が緩む。するりと抜け出て、悶絶しているそいつに転がっていたテーブルをお見舞いした。
 ノインは部屋の隅にいた。何をどうやったのかは分からないが、部屋の隅で黒ずくめ達の猛攻を耐えているらしい。背後から全員殴り倒し、うずくまっていた彼女に手を貸して起こす。

「さっさと逃げるぞ」

 しかし、彼女はここから出ることを躊躇った。何かと思えば、宿代を置いて行こうとしているらしい。待っていられるはずもなく、財布から十分そうな量を掴むと、彼女を連れて一階へ走った。何が何だか、という顔の青年に宿代を握らせて、外へ出る。

 家は十数人もの黒い人間達に囲まれていた。雷と会話で気付かなかった自分に腹が立つが、それよりもここをどう突破するか考えなければならない。すると、前触れもなくつむじ風が吹いて、立ち止まったあたしの足がふわりと浮いた。
 何事かと足元を見ると、ノインとあたしの足が地上からぐんぐん遠ざかっている。あたしの思考もこの状況には対応しきれず、小さくなっていく家と人間達を呆然と見ているだけだ。
 垂れさがった手をノインが掴んだ。

「あんたがこれをやったのか」

 あたしの声は風に掻き消されて、掴まっていて、という内容なのだろう彼女の声も聞こえない。しかし、体に当たる風圧はいきなり強くなり、二人の体は加速する。眼下の街並みが流れていく。列車に乗ろうとしたのだろう。駅まで飛んで行くが、着いてみれば、そこも占拠されている。

 一体、この少女一人をどうしてそこまで追うのか。

 彼女は、空にあたしと浮かんだまま途方に暮れていた。突っ込んでも人数が多すぎる、かといって家にいた奴らが追いつくのも時間の問題。どうする……いや。

「ノイン、先頭が機関部だ。あそこの中に降りて、中の石を起動させろ。でかいのがあるから、ぶん殴ればいい」
「え、でも、中には人が……」
「策がある。あいつらが追いつく前に行くぞ」

 彼女は数瞬困惑したが、覚悟を決めた目で頷いた。機関部と後続車両の接合部に降り立った。黒達は獲物が自ら来た事に驚いたようだったが、思い直したように向かって来た。しかし、降り注ぐ雨が突然全て巨大な氷塊に変わり、そいつらを吹き飛ばした。そのまま彼女は機関部に入って行き、あたしは車両の繋目に手を伸ばす。外れた。騒ぎを聞きつけた黒ずくめ達がこちらへ向かって来る。まだ、まだ発車しないのか!

 列車がゆっくりと動き出した。黒ずくめ達の足と比べて、それはあまりにも遅い。何人かはこちらに走って来て、何人かは変な形の長い棒を取り出した。見覚えのあるそれの正体が分かると同時に、あたしはその場に伏せた。あたしの頭があった場所を、鉛の弾が駆け抜けていった。あれは改造版の銃、それも殺傷力が高いと研究者が自慢げに話していたやつだ。本当に、何て物を持ち出して彼女を追っているのか!

「動き出したのです! 中に入って」
「来るなぁっ!」

 遅かった。

 あたしを狙ったのだろう弾は、あたしの体勢と、本格的に動き出した機関車のせいで外れ、代わりに彼女の胸を貫いた。

 時間が止まったようだった。刹那が何十倍にも引き伸ばされた流れの中で、彼女の目が見開かれ、ゆっくりと倒れ込むと――

 あたしは思った。

 だが、現実として、彼女は大きく顔を歪めたまま、その場に立っていた。走り出した列車の上で、髪を風にたなびかせて、ただただ、立っていた。

 どういう事だよ、と掠れた声が漏れた。


 身体の全てが、酷く疲れた。

 動き出した列車の機関部で、あたしとノインは向き合って座り込んでいた。多分この列車は旧式なんだろう。かつて、それこそカラット制度が始まる前、列車は木炭を燃やして走っていたと聞く。その名残であろう竈の扉に、人の頭ほどある巨大な石が、煌々と輝きながら鎮座している。
 こんなでかいのを体に入れておくのはどんな人間なんだろうかと、この状況から逃避するように考えた。

「……全部、話してもいいですか」

 ノインがあたしの顔を覗き込みながら言った。あたしは黙って頷く。彼女は絞り出すように一言一言を紡ぎだした。

「まだ列車が炭で走っていた頃です。まだ、線路が張り巡らされていなくて、あちこちが川だった頃です。その時、この国にはまだカラット制度は存在しませんでした。もう、三百年も経ったのだと知ったのは、つい最近です」

 そうして彼女は、あたしの目をじっと見据えた。

「私は、その頃からずっと、あの部屋で生きています。あなたは、心臓を貫かれても死なない人間をどうやって殺せばいいのか分からないと思いますが、私は……」

 きつく握られた彼女の手に爪が食い込んで、白い肌に赤い雫が浮き出した。

「……私は、あと三日もしないうちに、勝手にこの三百年から殺されます」

 「人間の命を資源にする」そのアイデアは、発見された直後、とても現実的ではなかった。

 蟻が何匹集まっても列車を動かせないように、一般の人間の命をいくら集めても、列車を動かしたり、あるいは巨大農場を照らしたりといった真似が出来なかったからだ。
 おまけに、あの石は人の体内にある時しか力を溜められず、いずれ力を消費しきってしまう。巨大な動力を維持するには果たして何万人の命を将来にわたって必要とするのか分からなかった。
 しかし、どうしても自分の発見を活かしたかった学者は、禁忌とも言えることをしでかした。

 人間の体を、完全に石を作る機関としてみなし、他の機能を全て奪い去って、空いた場所に大量の石を詰め込んだ。その実験は何度か失敗したが、数十人目でとうとう成功した。彼女の体内で融合し、一つの動力源として動き出した石を見て、学者は己の業を更に重ねた。
 その「成功例」を、人の理を無視した期間、生きながらえさせようとした。劣化する器官は半分以上もう奪われていたし、生命機能の大部分は彼女の中の石が補っていたから、あとはその石をどうやって活動させ続けるかだった。
 その手段は、学者が死んでしまってもう分からないらしい。昔とはかけ離れた外見になったことから、自分の体に何かしたのは間違いないとノインは言った。そうして石を育て、時期が来たら取り出し、また沢山の石を詰め込んで、また取って――気が付いたら三百年が経っていたという。真の意味での資源として、彼女がこの国の仕組みを支えさせられていた。

 朽ちない体でも、栄養補給だけはしないと生きていけなかったらしい。何百年も生き続ける体を支えるため、超高濃度に凝縮した養分を、最初は点滴で打ち込んでいた。彼女が生活に耐えきれず一度脱走を試みた後、さすがに扱いを反省したのか、点滴は食事に変わり、それまで閉じ込められていた実験室は豪華絢爛な部屋になった。
 しかし、籠の中の生活に変わりはなく、定められた時間を遥かに超えた心は、着々と限界を迎えていた。

「そんな時、どこで私の存在を知ったのか、食事に毒が入れられたのです。私はこれで終われると思ったのですが、この体は、危機を脱してしまったのです。私に死なれると、あの学者がいない今、もう私のような子は作れないのです。それで、毒見係がおかれることになったのです」

 撃たれても死なない人間が毒ごときで死ぬとも思えないが、万が一を恐れたのだろう。毒見分以外ろくな物を食べていないのに彼女を平気で抱えて走れたのは、多分ノインの食事が特別製で、その影響があたしにも出ていたからだ。

「飛ぶことも、何かを動かすのも、石の力のおかげで思いのままですが、命だけは無理でした。この体は、それくらいしなければ維持できないのです。ですから、もうすぐ私の体は衰弱していって、いずれ終わりを迎えるのです。連れ出してくれさえすれば、あとは自然と死ねるので、あの場所で唯一何も知らないあなたに頼みました。山脈に行きたかったのは、あそこなら雨が降らない、と聞いたことがあったからです。……こんな体ですから、あなたが欲しがった『重さ』は、渡せないのを分かっていて黙っていました」

 ごめんなさい、と彼女は俯きながら謝った。

「……それに、私が死んだら、この国の仕組みは完全に壊れます。最初は、そんなのどうでもいいと思っていたけれど……多くの人が、犠牲になってしまうかもしれません。ここまで逃げておいて言えることではありませんが、あなたがこの列車を止めても、私は従います」

 彼女との旅で、雨の音だけが支配するこの静けさは、何度体験しただろうか。あたしは立ち上がると、列車の運転席に向かい、そこにあったレバーを思いきり引いた。
 倒れそうなくらいに体に後ろ向きの力が加わり、外の景色が急速に後ろへと流れていく。列車は最高速で終点へと走る。
 機関部に戻り、恐る恐る上目遣いにあたしを見るノインに、列車が向かう先―—遥か東の山脈を指して言った。

「終点についたら、こいつに線路を外れて走らせる。どこかで横転しても文句は言うなよ」

 嬉しいのか悲しいのか、涙でぐしょ濡れになった彼女の顔を、あたしは多分一生忘れない。


 列車は終点の村に着き、線路の端の突起の上で一度浮き上がると、村人達の驚きを背に東へ東へと走り続けた。


 空が明るみ、暗くなり、そしてまた明るくなった。雨は弱まった。走り続けた列車は、山脈に着いた。

 列車を止め、最低限の荷物だけを持って、あたし達は登山―—もっとも地に足を付けず、誰が使ったのかも分からない登山道に沿って飛んでだったが――を始めた。山は行っても行っても岩ばかりで、空が暗くなると地面に降り、明るくなるまで寝た。

 雨は、とても弱い霧雨になった。

 朝になって、漸くあたしはノインが言った「終わり」を実感した。彼女は朝がそれなりに得意だったが、いくら体を揺すっても、彼女は目を覚まさなかった。仕方がないので背負って歩き出すと、体感的に昼になった辺りで、背中から小さな呻き声が聞こえた。

「……すみません……」
「いいから寝てろ。雨が降らないとこまでは生きるんだろ」

 雨は、途切れ途切れに落ちてくる水滴となっていた。

 どれくらい歩いただろうか。空は再び暗くなった。もう、彼女には時間がない。あたしは止まらず歩き続ける。

「……どうして、そこまで、してくれるんですか……?」
「雨が止んだら教えるよ」

 足元も見えなくなった。それでも、ゆっくりとあたしは進んでいく。もう腕に感覚は無い。ノインの声もしない。

「……生きてるか」

 彼女は微かに身じろぎをした。もう少し。もう少しできっと着くんだ。生まれてこの方、神など恨んだことしか無いが、あんな道を歩んだ彼女の人生が、こんな終わり方をしていい筈が無い。
 歯を食いしばって、あたしは歩き続けた。


 登山道は不意に終わった。
 道が細くなった訳でも、険しくなった訳でも無い。
 ただ、本当に終わった。

 道は、突然崖に変わった。神か誰かが、気まぐれに山脈を切り取ったのだろうか。山を巨大な刃物で切断したように、ぱっくりと深い崖があった。対岸は無く、遥か下には岩一つ無い海。眼前には炎色の空間がひたすら続き、大きな光の球が強く強く輝いている。

 その光で蒸発したように、ほんの一滴の水も、もう降ってはこなかった。

「着いたよ」

 ノインを降ろしながら言う。彼女は閉じていた目を薄く開いた。彼女の目が周りの色を反射して赤く染まって、口が僅かに開いて微笑んだ。
 彼女の体を支えながら、あたしは暫くそこに座っていた。光の球はゆっくりと登っていく。

「……理由を、訊いてもいいですか……?」
「何のだ」

 私の重さを欲しがった理由です、と言われて、そんな約束だったと思い出す。

「大した理由じゃないよ。面白そうだと思っただけだ」

 彼女がきょとんとした顔で、眠たげな目を一層細めた。

「定められた価値ってものを超えてみたかった。……あたしには、国をどうにかして変えようなんて正義感も気概も無かったからな。子供じみた、小さい復讐さ」

 彼女にもう一つ訊かれていたことがあった気がする。そちらにも答えようとしたが、それはいくつもの足音に遮られた。
 こんな所まで来やがるのか。背後を見れば、いつかの黒ずくめ達だ。あの山道を全力で走って来たのか、どいつも肩で息をしながら、あたし達に銃を向けている。
 命が惜しければ今すぐその子を渡せ、と焦りを大いに含んだ声で先頭に立った男が言う。こんな状態でも、まだ彼女を生きながらえさせる術があるのか、それとも今ある石だけでも利用しようという肚なのか、或いはあたしが彼女の事情をまだ分かっていないと思っているのか。

「そっちこそ銃を下ろしたらどうだ。ノインが死んで困るのはお前らだろう」

 ちょっと我慢してな、と彼女に言って、あたしは数日前奴らから奪った銃を懐から取り出す。向ける相手は奴らではなく、ノインだ。フードの奥でいくつもの唾をのむ気配がした。

「そんなハッタリが通用すると――」
「撃てるさ。あたしは彼女に殺してくれと頼まれたんだからな」

 強く噛み締められて、奴の唇に血が滲んだ。奴が一歩前に出る。あたしは彼女を抱えて、一歩下がる。ノインは、自分がどうあがいても、この逃げ場のない状況では二人共捕まると観念したのだろう。もう開いているのかも分からない目から、一筋涙が流れている。
 とうとう奴は、このまま事態が硬直するにしても、あたしが彼女を撃つにしても、あるいは彼女を保護しても、もうノインを生かせないと思ったのか。それまで唯一構えていなかった銃をあたしに向け、引き連れた部下達に指示を出した。

「この国のためだ。子供だからといって、容赦するな」
「言うね。あんた達がこれまで――」

 それまでノインに向けていた銃を、さっと奴らに向ける。

「あたし達を人間扱いしてくれたことがあったか?」

 撃つ。相変わらず弾は当たらなかったが、予想していなかった攻撃に奴らは反射的に姿勢を低くした。その隙にノインを抱え、崖に向かって走る。意図に気付いたのか、背後で奴が「やめろ、早く撃て!」と叫んだ。

「なあノイン、あんたやっぱりお人好しだよ」
「……?」
「他の奴らなんて、あたしはどうでもいい。むしろ」

 崖を蹴る。弾が一発、あたしの肩を掠めた。そして、それきり当たらなかった。

「こんな世界、ひっくり返ってしまえばいい!」

 二人分の体は、重力に引かれて加速を始めた。さっきまで立っていた場所がみるみる遠くなる。奴らはどうしているか。今頃、落ちていくあたし達を見て、さぞ悔しがっていることだろう。

 ノインを抱えたまま、あたしは落ちていく。上も下も、ひたすら青い。空も海も本当は青いんだ。あの国にいた頃は、知る由もなかった。最期に思うことがこんなに平和で静かなものだなんて、数日前のあたしは絶対に信じないだろう。
 彼女が聞いているかは分からない。ただ、風の音に負けないように声を張り上げて伝えた言葉は、絶対に聞こえていると信じたい。

 生まれて初めて、あたしは誰かと対等に話をした。菓子を一緒に食べた。初めて、自分を人間として捉えてもらった。……世界を憎んで終わるものだと思っていた命を、誰かのために使ってもいいと思えた。

 ありがとな。

 あたし達は、無限に続く青色に吸い込まれていった。


  S歴五百三年、ライトニッグ共和国にて、突然政府からの動力供給が停止した。研究者達は、新しいエネルギーの開発に躍起になった。

  五百十年、混乱の中、一人の青年が雷から力を取り出したと発表した。

  五百十四年、有用性が認められ、その力は「電気」と名付けられた。

  五百二十七年、街には捕雷塔が林立し、電気は一般家庭にも普及した。

  五百三十六年、カラット制度は廃止された。

  五百四十一年、ライトニッグ憲法が制定された。

 その第一条には、「人々の平等」が誓われた。




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