憧憬に鍵を

2022-12-03


次の話 転嫁

 おねえちゃん、リンおねえちゃん。
 自分を呼ぶ幼い声がした。ベッドから這い出し、寝室を出て、玄関へ。木製のドアを開くと、小さい生き物が体当たりをする勢いで抱きついてくる。
 うわっ、と声を上げつつも一切ぶれない体幹は、日々の鍛錬の賜物だろうか。小さな生き物――五つか六つの幼い少女は、用件を尋ねると大きな目に涙を溜めて自分を外へ引いていこうとする。
 ねこちゃんが、ゆすってもおきひんの。
 泣く寸前を維持したまま、少女は猫を治して欲しいと訴える。この村で猫を飼っていた家は無いので、野良猫、恐らくは山猫だろう。

 付いていくと、予想通りほっそりとした山猫が、少女の家の前、ドアを開くとぶつかる場所に倒れていた。元々なのか少女が動かしたのかは分からないが、手足は伸び切っている。その身体は冷たく、硬直していた。事切れてから、もう数時間は経っている。

 残念やけど、もう間に合わん。死んでもうた命は、魔法でも戻せん。

 持って来ていた回復の杖を置き、屈んで猫を抱える。

 お墓、作ろか。

 目線を合わせて言うと、歳に合わず聡い少女は、目を拭いながらこくりと頷いた。
 あれが多分、生涯で初めて作った墓だったと思う。自分はその時、十四か十五だった。そう昔のことではない。まさかその数年後、自分が何十もの墓を建てることになるとは思いもよらなかったし、言っても信じなかっただろう。


「この家は、皮なめしの兄ちゃん一家が住んどった。兄ちゃんは、こんな田舎に住んでられるか言うて去年飛び出しとったから、今は親父さんとお袋さんだけや。……親父さんはウチの近くで戦っとったけど、お袋さんは足が悪うて家から出れへんかったはずや」

 魔物達が押し入ったのだろう。出入り口にはドアどころかその枠すら残っていなかった。守れなかった償いに、せめて目だけは逸らすまい。前を睨みかつての敷居をまたぐ。後ろから金髪の僧侶が律儀に挨拶をして入ってくる。水色のアーチャーは、魔物の残党を警戒してか音一つ立てずに僧侶の前に立った。

「……鼠一匹いねぇな」

 その通りだった。荒らされた一階には、家具や食糧の残骸が散らばっている。生者も死者も見当たらず、あるのは上への階段のみ。それを登った彼は、口と鼻を覆って戻った。上に何があるのか、察するには十分だった。

「見んな」

 掴まれた腕を振り払い、階段を駆け上がる。そこの光景に崩れ落ちるのは幾度目とも知れない。涙はとうに枯れ果てていて、握り締めた拳から滴る紅色だけが止まらなかった。

 村人のうち、十人程が他の地域にいて魔物の襲撃に巻き込まれなかった。村にいた人間で、生き残ったのはただ一人。
 集会所に並べられた遺体は、どれも酷い有様だった。斬殺や撲殺されたものは綺麗な部類で、大部分が炭になったもの、隕石で潰されたもの、溶かされて一部しか残っていないもの。

「あんた、どうしたい?」

 戦いと遺体の回収を終えた日の夜。父親の遺体の前に座り項垂れていると、アーチャーが背後から声をかけてきた。確か名前はブルース。

「言うたやろ。魔王城まで行って、奴らの親玉を地獄に」
「あー、いや、そっちじゃなくて」

 さも困ったように頭を掻くが、表情筋にさして変化は無い。

「これ……じゃなかった、この死た、遺体達の処分方法を痛っ!?」

 集会所の扉から何故か兜が飛んできて、ブルースの頭にぶつかり鈍い音を立てた。んな使い方の物じゃないだろ、と声を張る彼の口を、入ってきた鎧姿の青年が手で塞いだ。

「せめて埋葬と言え。亡くなった方々への敬意も持てないのか?」

 青年、名前は……ジルバ、だったか。如何せん昼間にほとんど会話をしていないのであやふやだ。彼はブルースの口を放すと、リンを向いて直角に頭を下げた。

「うちの馬鹿がすまなかった」
「わ、頭下げんでもええのに」

 気にせんよと笑顔を作ると、ブルースが僅かに瞠目した。

「……悪い」

 相変わらずの表情だが、声は少ししょんぼりしている、気がする。

「ええっちゅうのに。それで、お墓の話やろ? ウチらは命を山に還すために土に埋めるんやけど、この人数やから……今までどうしてたん? その、壊滅、したとこでは」

 ようやく顔を上げたジルバは、答えに詰まったようだった。それを見てブルースが不思議そうに首を傾げる。

「一人一人の墓は作ってられねぇけど、そのままだと腐るわ虫が湧くわで悲惨だから、まとめて燃やして」

 ジルバがブルースの足の甲を静かに踏んだため、そこで彼は口を閉じた。代わりにジルバが言葉を選びながら話す。これまでの町や村では人手もなく生き残りもいなかったことから遺体を一斉に火葬していたこと、今回は村の規模も小さく、生存者、つまりリンの意思に可能な限り沿いたい、ということ。隊長や他の仲間達も同じ考えだ、とのことだった。

「苦労かけてまうけど、頼んでええか?」
「勿論だ」

 おおきに、と笑う。墓地の場所や、そこまで遺体を運ぶ手段を明朝話し合うと決めて、ジルバは外へ戻っていった。魔物達が万一戻ってきた場合に備えて見張りをしていた最中だったらしい。ブルースを引き摺るように連れて行ったのは、変なことを言わせまいという配慮だろうか。独り言だったのだろう。連れて行かれる最中に、分かんねえなぁ、と口が動くのが見えた。


 村から出たことが無かったリンにとって、魔王討伐の旅路は目まぐるしい未体験の連続だった。食事の最中に魔物の襲撃を受ける。その食事も美味しいとは言えない携帯食糧を色々と工夫して食べる。雨が降った日は寝床を探して奔走する。
 それでも、仲間達との旅は新たな、そして唯一の居場所になった。皆がリンの傷を広げないように気を遣いながら接していることにはすぐに気付いたが、仲間として受け入れてくれていることには変わりなかった。最初はぎこちなかった笑顔も、すぐに上手になった。

 村を出てから、二十日程経った日。雨のために行軍を中止し、付近にあった廃村に滞在していた時だった。傾いた椅子に腰掛けたテミが、珍しく分厚い本を読んでいた。倉庫から拝借したランプが、暗い部屋の中で彼女と本の輪郭を映し出す。

「魔導書読んどるの? 珍しいなぁ」

 魔法の本っておもろいん? 問いながら頁を覗き込む。文字や単語は分かっても、文脈や理論が難解で何を言いたいのかはさっぱり分からない。

「マゼンダから借りたんです。回復魔法を基礎から発展まで理論的に説明した本で……教会では、回復魔法を信仰心や愛の結晶として学ぶので、違う視点で面白いですよ」
「……それ、教えとか大丈夫なん? ウチ、あんまり信仰とか知らんけど」

大丈夫ではないですね、と彼女は寂しげに笑った。後ろめたさは感じられない。

「ですが、何が善か、何を標とするかは、本来私達が自ら探すべき事です。教会の教えは、その手掛かりとして先駆者の思考を示しているにすぎません。……私にとっての善は、少しでも多くの命を救うことです。教えを盲信することではありません」

 この言葉も人の受け売りですが、と彼女は遠い目をした。

「……命、か」

十字架の群れに変わった自分の故郷を思い出す。救えなかった沢山の命。たとえその中の一人だけでも生きていられるなら、何だって出来る。そのくらい、大切な。

 魔が、差した。

「……テミ、ウチもそれ、読んでもええか?」

ほとんど読んだので大丈夫ですよ、と彼女が本を差し出す。努めて平静を装った手に汗が滲む。旅の間に笑った形で固まった顔の皮が僅かに引き攣っていたことに、彼女は気付かなかったようだ。


 この世界で一番不可解で不条理なものを挙げるなら間違い無く感情だと、十数年の間考えながら、ブルースは生きてきた。そして、それはたった今証明された――少なくともブルースの中では。

 それは、リンが加わって一月程経った夜のことだった。彼の目の前で繰り広げられているのは、所謂修羅場というものだろうか。地面には分厚い本が何冊も散らばり、その上では一触即発の段階をとうに過ぎてしまった仲間達。倒れているテミをジルバが介抱し、魔導書も投げ捨てて怒りの言葉を並べ立てるマゼンダをブロントが宥め、座って俯いたリンの肩の上でティンクが彼女に寄り添っている。
 薪を拾いに行って、戻るとこの有様だ。一番話が出来る状態に見えたリンに近付く。

「何があったんだ?」

 返答は無い。ティンクに尋ねても、首を横に振るだけで結果は同じだった。仕方無くジルバの方へ。

「どういう状況だ?」
「見て分からないか」
「やばいのは分かる。原因も対処も分かんねえけど」

 ジルバがこめかみを抑える。その後吐かれた長い溜息を終えて、彼はリンを少し遠くへ連れて出すように言った。

「俺が? お前の方が下手なこと言わねえ分」
「いいから連れて行け」

 語気が荒い。逆らわない方が良さそうだと判断して、リンの手を掴む。一瞬ブルースを見ただけで、彼女に抵抗する様子は無い。手を引くと、立ち上がってついてくる。相変わらず俯いているせいで表情は分からないが、生気も覇気も無いことは感じられた。人形みたいだな、と口から漏れそうになる。
 ランタンが照らす夜の世界を、二人で歩く。何があった、ともう一度問う。返事は期待していない。予想通りの沈黙の後、彼女が問い返した。

「……あんたは、生き返らせたい人っておる?」
「いや」

 即答だった。リンが顔を上げるくらいには。

「……羨ましいわ」
「そうか?」
「生きとるんやろ。大事な人が」

 それについては、首を傾げることしか出来なかった。
 大事な人。ブロントは該当するだろうか。仲間達は? ……そもそも、大事な人とは?

「で、それとさっきのと、何の関係があるんだ?」

 途端、ぺちん、と頬に軽い衝撃が。何かと思えばティンクがブルースをはたいたのだった。こっそり一緒にいたようだ。耳元で、訊き方ってものがあるでしょ、と囁く声がする。続く囁きによる説教曰く、どうやらリンは随分傷付いている、らしい。いつもの勢いがないのはそういうことかと納得する。それを教えてもらったついでに、先程の状況も尋ねたかったのだが。

「知らないでいてあげて」

 ティンクに思考を先回りされた。分かったよ、と肩を竦める。
 人の感情を推察するのは不得手だが、マゼンダの怒りはリンに向いているように見えた。少なくとも彼女を宥めていたブロント、意識がなくどんな言葉をかけても無意味な状態だったテミ、そもそもその場にいなかった自分ではないはずだ。リンが何かをして、それにマゼンダが激怒して先程の状況になった、と考えるのが最も自然だろう。テミが倒れていた理由は不明なままだが。
 そうだとしたら、ティンクが自分に事情を教えようとしないのは、リンを庇うためだろうか。仲間を殺そうとでもしたんじゃなければ別に嫌わねぇのに、と少し不思議に思う。そもそも、嫌うという心情自体ブルースにはよく分からない。マゼンダは、この一件でリンを嫌いになったのだろうか。だから、唯一の武器である魔導書を投げ捨てる程激怒していたのだろうか。魔導書……そもそもどうして本が散らばっていたのだろうか。

「……ん?」

 リンの左頬が腫れていることに気付く。角張った赤い痣も付いている。まさかとは思うが、あの魔導書や本は、リンに向かって投げつけられたのだろうか。……さすがに有り得ない、か?

「リン、顔上げろ」

 充血した目がブルースを見る。目もぶつけたのか、治せるといいんだが。どこかずれた考察をしながら、右手を彼女の頬にかざす。

「キュア」

 短く唱える。小さな光が手と彼女の頬を包み、腫れがゆっくりと収まっていく。リンが目を丸くした。

「……杖、持ってへんのに」

 この旅の中で使うのは初めてだったと気付く。

「杖とか魔導書とか、そういうのが無くても魔法自体は使えんだ。向き不向きがあるらしいけど。本気でやばい時はマゼンダも素手で炎出してるし、テミも杖無しで回復魔法使ってたし……確か、その時はとにかく数がいるからって、俺が杖を持ってたんだったか。ブロントも光魔法を使えるしな、一応」

 滅茶苦茶嫌がるけど、と心の中で付け加える。

「何で普段は使わんの」
「使えるだけで、杖無しで戦闘中に回復を間に合わせるだけの魔力は無えよ。今のだって、かなり遅いだろ」

 その言葉の通り、腫れはまだ完全にはひいていない。杖で補助するか、あるいは素手のテミならあっという間に治る傷だ。

「時間かけていいなら、割と役に立つけどな。解毒魔法と毒魔法もあるし。蜂の巣でしか使わなかったけど」
「毒は役に立つやろ」
「撃った方が早い。使うとしたら……余程音を立てたくない時か、武器が全部壊れた時か? 矢が尽きた程度なら、最悪弓で殴ればいい」
「それこそ毒の方が早いんちゃうんか」
「いや。あれ重いし硬いし、中々威力が出るんだ。曲がりそうだからやりたくねぇけど。武器は生命線だし」
「ウチらとは違う感覚やな、それ」

 続く、拳が折れるんを怖がってたら何も出来ん、という言葉は、近接攻撃をしないブルースにとっては新鮮だった。

「……どうしたん。間抜けな顔して」
「間抜けって何だよ。ブロントとか見てると、剣とか槍を壊しそうって思ってねぇのが不思議だったけど、そういう理由かって納得しただけだ」
「……むしろ、ウチはあんたがそこまで武器を大事にしとる方が意外や」
「そんなに雑に見えるか?」

 雑とは思わんけど、とリンが一瞬言い淀む。

「何も執着しとらんように見えるわ。武器やったら、壊しても換えればええって思うとる、道具も他のもんも、って思っとった」

 ちゃうみたいやけど、とリンは付け加えたが、ブルースには彼女の言葉が正解だと思われた。
 鉄の弓はもう何年も使用している。自分が使いやすいように弦や本体の調整を繰り返しているので、壊したくないのは事実だ。だが実際壊したとしても、新しいものを探すのが面倒だと思いこそすれ、落ち込みはしないだろう。精々自分の落ち度を反省するくらいだ。矢はむしろ頻繁に買い換える。少しでも曲がると軌道がずれるからだ。曲がった矢を捨てる時に感情を抱いた覚えも無い。
 勿論粗雑に扱うことは無い。ブロントやジルバと比較しても、武器の扱いは丁寧だと自負している。ブロントが投げ槍を適当に扱った時は小言を並べるくらいだ。ただ、大事にしているかと言われると、それも違う気がする。

「そもそも大事ってどういう状態だ?」
「え、何や突然」

 話の流れってもんがあるやろ、とつつかれる。野営地を出た時よりも、顔が明るく見えた。だって気になったんだよ、と言うと、彼女は考え込むように虚空に目をやった。

「訊かれると困んなあ。……状態よりは、気持ちの方が近いと思うわ。人やったら、一緒におると楽しくて、また会いたいって思うたり。物なら、ずっと使いたい……って感じか? あ、使わん物でも仰山あるわ。大事な物」

 リンが唸る。ブルースは何も言わずに彼女の答えを待った。いつの間にか会話から抜けていたティンクがその肩に座る。

「無くしたくない、か……? しっくりくんのは……うん、それや」

 あくまでウチの考えやけど、と前置きをしながら、彼女がブルースを見据える。

「大事ってのは、無くしたらあかんってことや。人でも物でも、形が無いもんでも、無くしたくないって思うのが、大事ってことやと、ウチは思う」

 無くしたくないものが、大事。頭の中で繰り返す。仲間の顔が浮かんだ。死なせたくはないと思う。それは間違いない。成程、それが「大事」か。

「……答えになっとる?」

 頷いた。ふと、新たに湧いた疑問を尋ねてみる。

「形が無いものって?」

 この問いは、先のものより簡単だったらしい。せやなぁ、とすぐに答えが返ってきた。

「思い出とか、気持ちとか。誰かからの愛情って人もおったし、絆とか、友情とか……」

 そこで言葉は途切れた。再び虚空を見つめる目が何を考えているのか、ブルースには分からない。あまり良いことではなさそうだという予感は少しあった。

「……その人が生きとっても、物が残っとっても、間にある気持ちが無くなったり、別のもんになっとったら意味無い。せやから実態が無くても大事。そういうものが多いわ。多分」

 そう言うと、彼女は歩いてきた方を向いた。

「戻んのか?」

「戻らん訳にもいかんしなぁ」

 それならばと踵を返そうとすると、少し遅れて戻ってくれないかと頼まれてしまった。周囲に魔物の気配は無い。一人でいてもすぐに襲われることは無いだろう。わざわざ頼む理由を図りかねながらも頷く。彼女は、すまんなぁ、と謝った。そのまま歩き出した彼女が振り返る。

「落ち着いたわ。おおきに」

 硬い笑顔が再び前を向いた。遠ざかる背中を眺めながら首を捻る。会話をしていただけなのに、礼を言われた理由が分からなかった。

「来たのがブルースで良かったみたいだね」

 肩の上、つまり耳のすぐ近くで声がしたため飛び上がりそうになった。

「……そんなに驚く?」
「俺、耳は良いから結構でかく聞こえんだよ。ていうかリンに付いて行かねぇの?」
「どう考えてもブルースを一人にしてた方が危ないでしょ」

 弓持ってきてないし、と言われれば反論出来ない。

「それだと、リンはいつも武器持ってるようなもんか……今度格闘術教えてもらうかな」
「言いにくいけど、かなり力が無いと難しいんじゃない? ブロントとかジルバと比べると、ブルース随分細いし……」
「比較対象が悪過ぎんだよ! ジルバとか常時フル装備の化け物だぞ」
「ブルースは胸鎧だけでも嫌がるもんね」
「耐えるより避ける方がダメージ少ねぇし」
「躱し損ねたら悲惨だけどね」
「俺自分で治せるし」
「さっき自分で戦闘中は役に立たないって言ってなかった?」

 ぐうの音も出ない。こういう論争は得意ではない。特に相手がティンクやマゼンダ、ブロントの場合は。押し黙っていると、さすがに言い過ぎたよ、と肩の上から謝罪が聞こえた。

「……いつも思うけどさ、ティンクとジルバって俺に容赦無いよな」
「うわ、ジルバのと並べられた」
「嫌なのか?」
「嫌っていうか、そもそも中身が違うよ。向こうは小言かお説教だけど、私のはどっちかというと軽口、かな? あと、ジルバのは単にブルースが怒らせてるだけだと思う」

 馬が合わないのは大変だね、とティンクが溜息をついた。

「……怒らせてる、か。デリカシーとか配慮とか、複雑すぎて中々分かんねぇよ」
「ブルースのはそれ以前な気がするけどなぁ。自分のを含めて、あんまり感情を分かってないでしょ」

 ちょっと怖いくらいだよ、そう言われる理由も分かんないと思うけど。そう言ったティンクが、他の仲間と重なる。

「前にも言われた」
「え、憶えてない……いつ?」
「ティンクじゃない。マゼンダとジルバと……あとブロントにはしょっちゅう」
「最初からいたテミ以外の皆じゃん」
「テミには……何て言ったらいいか分かんねぇ顔で、確かにちょっと変わってるかもって」
「わあ、見事な婉曲表現」

 リンに同じ事言われたらコンプリートだね、とティンクがいつかのテミと同じ顔で言う。

「……私も言っておいておかしいけど、傷付いたりしないの?」
「傷付く、ってどういう感じなんだ? どこかが痛くなるのか?」
「……物理的な痛みではないかな。何かを言われたりされたりして、悲しくなったり、腹が立ったり」
「悲しい、とか、腹が立つ、とかもよく分かってねぇんだ。何回もブロントに訊いちゃいるんだけど」
「うーん……」

 腕を組んで黙りこくってしまった。無理して説明しなくても大丈夫だ、と言うと、しばらく考えた後、実際に感じたことが無いと分からないものなのかもね、と静かな声。

「さて、そろそろ戻るか」

 ティンクと軽口を叩きながら、ゆっくりと来た道を戻る。焚火の光が遠くに見える程の近さまで戻って来た時に、ふと自分に礼を言ったリンの顔を思い出した。あれは、どの感情に対応する表情なんだろうか。

「笑った顔って、嬉しい、とか、楽しい、になるんだよな」
「またいきなりだね……基本的には、そうだと思ってて大丈夫 だよ」

 そういえばブルースって笑ったことあるの? と問われ、生返事を返す。脳裏に浮かんだのは、あまり嬉しそうには見えなかった数刻前の笑顔と、更に昔の彼女の笑顔。

『うちの馬鹿がすまなかった』
『わ、頭下げんでもええのに」

 山あいの村が襲撃されたあの日。配慮に欠けた――言ってはいけなかった理由は後程ジルバからみっちりと説教された――ブルースの言葉に対し、彼女は笑顔らしきものを見せていた。大事な人やもの、彼女の言う「無くしてはいけないもの」を失った彼女に、喜や楽の感情が生まれるとは思わない。ましてや事が起こった夜に、酷い台詞を聞いた後で。
 今以上に感情や表情について無知だった当時のブルースでも、大きな違和感を持った。しかも、集会所の中にいる間、ずっと笑顔は彼女に張り付いていた。
 勿論、同じ感情でも人間によって違う表情になることや、同じ表情でも違う感情を表すことはブルースにも何となく分かる。テミが嬉しそうな時は笑顔に泣き顔がほんの少し混じったような顔になるし、本気で楽しんでいる時のジルバは笑っているのか怒っているのかブロントですら判断に困る顔をする。
 もしかすると、リンの笑顔も同じなのだろうか。彼女の場合、笑顔は喜怒哀楽の喜や楽ではない別の何かを表しているのだろうか。だとしたら何を?

「――ス、止まりなさい、ブルース!」

 沈んでいた思考をマゼンダの声が貫く。直後、背後から肩を掴まれ引き倒された。尻餅をつき混乱するブルースの足元で、焚火が音を立てて燃える。いや、元々燃えていた焚火に気付かず突っ込みかけたのだ。

「あんたねぇ。虫じゃないんだから、火に飛び込むなんて馬鹿な事しないでよ」

 腕を組んだマゼンダは、出て行く前に比べてかなり落ち着いて見える。不機嫌なことには変わらないが。

「怒ってるのか?」
「通り越して呆れてるわよ」

 成程、極限の怒りは呆れへと変わるらしい。……となると、彼女はリンに向けていた以上の怒りを自分に向けていることになるのか?

「……言っておくけど、通り越してっていうのは比喩表現で、怒りと呆れは別の感情だからね」

 長年の付き合いの賜物か、ブルースが口を開く前にブロントの解説が聞こえた。ブルースを止めたのは彼のようで、上を向こうとすると彼の足に後頭部がぶつかる。
 彼はブルースの隣にしゃがみ込むと、ありがとう、と耳打ちした。その意味が分からず彼の顔を凝視する。無表情にほんの少しの笑顔を混ぜた顔。ブロントの笑顔は、見てきた中でも一位か二位を争う純粋な笑顔だ。故に、ブルースでも感情を読み取りやすい。

「俺は喋ってただけだ」
「それがありがたいんだよ。特に今回みたいな時は」

 小さな声の会話は、間に入ってきたリンによって中断された。何話しとんの、と両者の顔に代わる代わる向けられる笑顔に、どこか既視感がある気がする。今のこの顔だけではない。彼女の笑顔には、常に出所の分からない既視感がある。何だろう。答えを探して彼女を見つめていると、段々その顔が赤くなっていく、気がする。

「な、なあ、ウチの顔に何か付いとる?」
「え、付いて……目と鼻と口と耳?」

 ブロントとマゼンダが噴き出した。微かに金属がぶつかる音がするので振り返ると、そっぽを向いたジルバが口を押さえて震えている。その隣で、目を覚ましていたテミが怒りとも悲しみともつかない不思議な表情をしている。
 あのねぇ、とティンクの声。転んだ際にリンの頭の上に避難していた彼女は、「呆れてる」と言い放った時のマゼンダと非常に似た顔で、じっとりとした視線を向けていた。マゼンダはジルバと同じように口を隠して――目つきから、笑っていそうだということは分かった――ブルースの目に気付くと、炎の書で顔を隠してしまった。ブロントは隠す気も無く、見本のような笑い声を上げている。

「そ、それが付いとんのは知っとるけど……」

 顔を赤らめたまま、リンがもごもごと何かを言う。この表情に既視感は無い。既視感を持つのは、笑顔だけのようだ。何故だろうかと思考に耽っていると、リンが湯だったような顔で、もうええやろ! とそっぽを向いてしまった。

「あら、もしかして照れてる?」
「や、やかましいわ! マゼンダもされてみい!」
「ブロント、照れるってどういう感情だ?」
「んー、結構難し――」
「ああああ! せめてウチの前以外でやらんか!」

 そう叫ぶと、リンは背を向けて走り出してしまった。放り出されたティンクが、元気になったのかなぁ、と呟いた。しばらくの間、何が起こったのか飲み込めないブルースの横で、ブロントが笑い転げていた。


 それから数日が経った。ブルースの目には、リンとマゼンダの間に確執などは残っていないように見える。暇な時はリンを観察していたので、それは間違い無いだろう。あんな大喧嘩――マゼンダが一方的に怒りをぶつけているようにも見えたが――の直後では、少し不自然な程、仲間達はいつも通りだった。
 もっとも、何が起こったのかは相変わらず分からない。リン以外の全員にもう一度尋ねてみたのだが、ブロントとテミはそれとなく言葉を濁し、マゼンダとティンクははっきりと拒否した。ジルバはそもそも断片的にしか知らないようで、俺が知りたいくらいだ、と語った。

「あの時、リンから何か聞かなかったのか?」
「ティンクに止められた」
「成程」

 大して期待もしていなかったのだろう。ジルバの声に感情の色は薄い。

「あと、あの時にティンクから言われたんだが」
「何だ」
「俺達って馬が合わないのか?」

 途端にジルバの眉間に深い皺が刻まれる。怒っている訳ではないはずだ。自分の顔が険しくなってしまうのは癖で、改善しようとしているが上手くいかない、というのを以前本人の口から聞いた。

「感情とか配慮? とか、そういうのを面倒臭がらずに毎回説明してくれるから、俺は結構……えっと、気に入る、か? こういう時に使うの」

 それは全くの本音だ。説明が若干難しいことと気迫が少し恐ろしいこと、そして始まる前に雷が落とされることを除けば、生真面目な彼による最初から最後まで一切手抜きの無い講義は非常にありがたい。注意する際に語気がすぐ荒くなるのは、訓練時代の常識や空気が染み込んで抜けないからだろう。直そうと努力しているのは、全員が知っていることだ。稀に飛んで来ていた兜も、今は言葉だけに収まっている。

「……そういや、そもそも馬が合うは気が合うって意味だよな。気が合うって、単純に嫌いあってないって意味か? それとも――」

 その後始まった講義は、もう夜ですから寝てください、という眠そうな顔をしたテミの言葉によって終わった。ジルバとテミはテントの中に入り、入れ替わりでリンが外に出る。大きく伸びをする彼女の懐が、いつもより膨らんでいる気がした。

「何か持って来たのか?」

 指摘すると、彼女は虚を突かれたように固まった。

「……盗んできたのか?」
「な、なわけないやろ! ……借りたんや。マゼンダから」

 否定の後の沈黙が気になる。何を借りたのか訊くと、回復魔法の理論書だという。どうせ使うなら、根本から理解したいらしい。チャイナ服の内側から分厚い本が取り出された。

「理論か……言われてみると、俺もよく分かってねぇな」

 自分も後で借りていいか。そう尋ねると、何故か彼女が再び固まる。

「……マゼンダに、訊いてもらってもええか?」
「ああ、分かった」

 手間かけるわ、堪忍してな? と彼女が例の笑顔を見せる。既視感の正体が分からないのも相変わらずだ。

「ところで、最初の見張りはウチとブルースなん?」
「ああ。丁度――」

 南東の空を見上げる。

「あそこに赤くてでかい星があるだろ? あれが南に来る頃まで、だな。大体三時間だ」
「……どっちが南か分からへん」
「背中側の、ちょっと高めの辺りを見てみろ」

 背後、つまり北の空に目をやる。数々の星座に交じって、三つの星から成る大きな光が空の中央に鎮座している。

「あの三つまとまってるのが、北極星団って呼ばれてるんだ。一年中、どの時間帯でも、北のあの場所から動かない。だから、あれを背にした時、正面は必ず南になるんだ。つまり……こっちの方向、だな」

 南を指すと、リンもそれを真似て北極星団に背を向ける。

「これ、迷った時とか便利やな」
「だろ? ちなみに他の星は半日で東から西に動くから、そこの角度を見れば大まかな時間も分かるんだ」

 へえ、とリンが身を乗り出す。山あいの村では、あまり星を使わなかったのだろうか。

「……ん? 見張りの時間を決めるには曖昧過ぎるんちゃう? あの赤い星全然動かんけど、南に来てもいつ交代するん?」
「……時計が、ちゃんとある」

 あるんかい! とリンが突っ込みを入れた。本人の意図より大きな声が出てしまったのか、急いで口を押さえてテントを見る。誰かが起きてくる様子は無い。

「……何でわざわざ星の場所で説明したん」
「い、いいだろ別に! ついついっつうか、星使いたかったんだよ。綺麗だし、幻想、的? だし、役に立つし!」

 何故か顔が熱い。それを見たリンが、悪戯を思いついた子供のように笑った。
 初めて、笑顔から既視感が消えた。

「なあ、その星の話って、どこで憶えたん?」
「……言いたくない」
「えー、ええやろ? そんな恥ずかしがらんでも、別に笑わんし」

 なーなー、と繰り返すリンに、子供時代のブロントが重なった。彼もよく似たような笑顔で、人が隠していることを見透かしてみたり、ブルースや彼の家族に悪戯を仕掛けてみたり――

「……歌劇だよ。俺とブロントが住んでた街でやってた、歌劇。そこで、星を主題にした劇をしてたんだ。……それで、憶えた」
「かげき?」
「台詞とか、他にも色々な場所が、歌で進んでく劇」
「へえ、そんなんあるんか、初めて聞いたわ! それ、どんな話なん?」
「……そんなに面白い話じゃねぇよ」

 ある所に、貧しい青年がいた。青年には老いた父と母、幼い妹がいたが、三人は飢えと寒さで死んでしまう。悲しみに狂った青年は、北極星団の三つの星が父と母と妹だと考えて、北へ北へと歩いていく。道中で様々な人間に出会い、やがて一人の娘と恋に落ちる。二人で旅を続け、辿り着いた雪原で、それぞれの家族の幻に見守られながら、二人は雪に埋もれていく。そんな話だった。

「……何とも言えん終わり方の話やな」
「だろ? 俺も正直、よく分からなかった」

 当時、つまり子供時代のブルースにも青年の心情がまるで理解できなかったが、彼を連れて行ったブロントの母親は、感動したのかハンカチを取り出して泣いていた。その息子は劇が始まって十分もしないうちに舟を漕いでいたため、子供には難しい話だったのだろう。

「それにしても、よう憶えとるなあ。おもんない思うたら、ウチは寝るか忘れとるわ」

 ブルースは顔を背けた。はっきりと憶えている理由は、彼が何度も歌劇を見に行っていたからだ。ただ、話が分からないにも関わらず観劇していた理由は知られたくなかった。

「……ブルース、顔赤」
「うるせぇ」

 隠そうと俯いた顔を、リンがわざわざ下から見上げる。普段の鈍さはどこに行ったのか、彼女の視線が言わんとしていることを察したブルースは、悪態と共に答えを白状した。

「……歌が、すごい綺麗だったんだよ。あーくそ、柄じゃねぇのは分かってる。すっげぇ顔熱くなるし、何か頭がわーってするし……だから言いたくねぇんだよ……」

 ああああ、と意味を成さない音を発しながら抱えた足をばたつかせる。ぽかんとした顔でそれを見ていたリンが、得心したように頷いた。

「歌を好きなんが恥ずかしい、ちゅうことか」

 これが恥ずかしいってことなのか、と考える余裕は残念ながら無かった。猛烈にどこかに隠れたい衝動に襲われる。

「ウチはええと思うで? 意外なんは否定せんけど、好きなもんは好きでええやろ」
「ううー……」
「その綺麗な歌、どんな歌なんや?」
「…………」

 理論書で顔を隠す。

「随分、嬉しそうだな」
「ふふ、せやな。ブルースが真っ赤になっとるの、見てておもろいわ。普段ろくに顔変えへんもん。で、どんな歌なん?」

 もうこの話は止めろ。そう言おうとして本を目の前から外した瞬間、心臓が止まった心地がした。
 彼女が旅に加わってから一番の笑顔がそこにあった。いつもの硬さは微塵も無い。強張りのない口元を見て、普段の彼女の笑顔はどこか力が入っていたと気付いた。心臓の辺りが、やけに暖かくてふわふわしている気がする。馴染みの無い、けれど不快では無い感覚。意識の外で顔の筋肉が綻ぶ。知らず、記憶の中の旋律、その最初の一音が喉から流れ出した。一度始まってしまうと、恥ずかしさも気にならない。
 歌劇としては珍しく、一切の感情描写を挟まない、広がる星海と純白の雪原の清純な美しさをひたすらに称える歌だった。芯があるのに消えてしまいそうな、限りなく透明で、それでも確かに存在すると分かる、そんな歌。
 最後の一音が空へと消える。陶酔にも似た、水中をゆらゆらと漂うような気分だった。どうだった、と尋ねる。返答が無い。代わりに、ぽたりと水滴が落ちる音がした。一粒、二粒とリンの目から大粒の涙が零れ落ちていた。予想外の反応に、あっという間に現実へと引き戻される。

「そんなに嫌だったか? それとも、下手だったか?」
「嫌やない。むしろ、めっちゃ上手いと思う」

 そう言われても、彼女が泣き出す理由がさっぱり分からない。彼女は腕で目を拭うと、懐かしむ歌やった、と言った。

「……そんな歌詞、あったか?」

 首を左右に振る。

「歌詞とか音とか、一部ちゃうんや。歌全部で、思い出しとる。……歌い方かもしれん」
「歌い方はねぇと思うけどなぁ」

 何せ歌っている当人がこの通りの無感情だ。

「もしかしたら、俺が聞いたらそう聞こえねぇだけで、本来はそういう曲なのかもな」

 それなら有り得る話だ。
 絶対ブルースの声や、というリンの呟きは、彼には届かなかった。

 結局、リンが泣き終えた後はお互いにほとんど無言でその日の見張りは終わった。交代の際に、テミから睨まれたのは決して気のせいではないだろう。実際、翌日彼女に詰問された時の説明には苦労を要した。


 人魚と青年の悲恋物語。仮面舞踏会での怪奇幻想事件。精霊を称える創世記。氷の大地の冒険記。禁忌を犯した男の栄光と破滅。星と家族を追う物語。
 ブルースが小さい頃に観て、今でも内容を諳んじることが出来る作品達だ。また歌劇の話を求められたらすぐに話せるようにと、細部まで記憶の海から掬い上げる。自分でも、ここまでする理由は分からない。ただ、彼女の笑顔を見た時の、感じたことが無かった暖かさが心臓にずっと居座っていた。

「ブルース、それは何の歌なん?」

 あの夜から二、三日経った日の行軍中、無意識に口ずさんでいたらしい。リンが、いつものどこか硬直した笑顔で問うた。違うな、と頭の端で声がする。

「歌劇の中の歌で……死期を悟った、人魚の歌」

 ひえ、とリンの顔が強張る。

「優しい歌に聞こえたんやけど、そんな物騒な歌だったん?」
「いや、物騒とか、死を連想させる歌じゃないんだ。これ」

 説明すると長いけど、と言うと、なら見張りの時に聞いてもええか? と彼女が笑って訊いた。今度は頬から少し力が抜けている気がする。頷くと、やったぁ、と彼女が目を細めた。また、心臓が暖かくなる。

「ぶーるーうーすー、どうしたの、すっごい嬉しそうじゃん」

 背後からブロントの声。顔が瞬時に無表情へと戻るのを感じながら振り向く。

「先頭にいたんじゃねぇの?」
「うっわ、僕とリンの扱いの差酷くない?」
「別に、いつも通りだろ」

 それはそうだけど、等々ぶつぶつとブロントが何かを言っている間に、リンは会話の相手をテミに変えたようだ。にこやかに談笑している姿を眺める。誰とどんな話をしているかに関わらず、基本的にリンは笑顔で他人に接する。お世辞にも笑顔が多いとは言えないジルバやブルースが相手でも変わらない。彼女が仲間になった日から、ずっとそうだった。

「……?」

 日が沈んだ。その日の見張りも、ブルースとリンは一緒だ。最初は二人でお願い、とブロントが良い笑顔でウィンクをしていた。余程嬉しいことがあったらしい。

「気ぃ回しとるなぁ」

 ブロントも下世話や、と焚火を見ながらリンが言う。下世話? 尋ねると、説明が返ってくる。少しつっかえながらの言葉達が、耳から耳へと流れていく。頭に居座っていることがあるからかもしれない。

「……なあ、ぼうっとしとるけど、何かあったん?」

 大したことじゃないんだけどさ、と前置きをする。昼に、そしてもっと前から感じていた違和感を伝えるべきなのか、珍しくブルースは迷っていた。

「リンは、いつも笑ってる……にこにこしてる、って言った方 がいいのか? 常に笑顔の場合は」
「せやな」

 怒っとるよりはずっとええやろ、と突き放すように彼女は言った。
 この場にいたのがマゼンダやジルバだったら、この反応を見た時点で話題を変えただろう。ブロントやテミ、ティンクはそもそも指摘もしようとしない。

「そうなんだろうけどさ、不思議っつーか」

 リンの変化に気付かないまま、ブルースは続ける。

「ずっと、村が襲われた日からいつも笑ってたから、どうしてだろうなって。何で、嬉しくない時に笑う、ん、だ……」

 爪跡がつくくらい、リンが拳を握り締めた。空気が冷え、ブルースの背筋を寒気が走り抜ける。

「やかましいわ」

 地を這うような声。そこに込められた感情は間違いなく怒り、それもブルースですらすぐに勘づく程の。

「せや。嬉しいわけないわ。皆、皆死んだっちゅうのに。嬉しくなくても笑っとる。無理矢理作っとる。満足か?」

 その気迫に、ただ頷くことしか出来なかった。そっぽを向いてしまった彼女を見ながら、それでも考える。あの質問は、そんなに人の神経を逆撫でするようなものだったのだろうか? それとも、リン個人の理由でこの問いが腹立だしかったのだろうか?

「……リン」

 名前を呼ぶ。彼女は明後日の方向を向いたまま、反応する素振りを見せない。無視されているのは明らかだ。僅かに息苦しさを感じた。心臓や肺の辺りが締め付けられるような、そんな感覚。これは、一体何だろう。


「悲しいとか、辛いだね」

 翌日の行軍中、ブロントに昨晩のことを話してみた結果が先の一言だ。そっちからいくかぁ、と意外そうに彼は続けた。

「何からいくと思ってたんだ」
「嬉しいとか楽しいとか。特に、好きなことをしてれば楽しくなるのは割と簡単だし、ブルースにも好きなことはあるでしょ? 歌とか……歌とか!」

 歌以外に思いつかなかったらしい。待って結構難しいかも、と彼が腕を組む。本格的に思考に沈まれる前に、もう一つの質問をぶつける。

「お前は、嬉しくないのに笑うことってあるのか」

 この問いは、彼をいたく驚かせたようだった。目を瞬かせた後、ほんの少し眉尻を下げて笑う。

「沢山あるよ。多分皆も……あ、マゼンダは分かんないや」

 そっか、気付くようになったんだ。ブルースが。その言葉はブルースに言っているようで、ブロント自身が何かを感じていると、ブルースには思われた。地平線の彼方を見るような目。何を、彼は見ているのだろう。
 ブロントとは十年以上の付き合いがあるが、彼がブルースの考えていることを当てることはあっても、その逆は無かった。もしかしたら、初めて彼の頭の中に近付いたからだろうか。彼が普段の完璧な笑顔を崩す程驚いたのは。

「どうして、わざわざ本当の感情と違う顔をするんだ」

 その回答は、さあねぇ、という曖昧な一言だった。人にも場合にもよるから、一概にこうだとは言えないよ。両肩を上げながら、彼は至って穏やかに語った。
 偽物の笑顔を作ることは珍しいことではなく、その目的も様々。実は他の面々の笑顔も偽物だったことがあるらしい。リンの反応を理解するための問い掛けだったはずが、余計に疑問が増えていく。
 少し整理したい。それを聞いたブロントはブルースの肩を軽く叩くと、索敵だけ忘れないでね、と言い残して彼の少し前を保って歩き始めた。


 数日が経ち、一行はまだ魔物の侵略を受けていない、小さな村に辿り着いた。貧しい村ではあったが、死の気配は無い。しかし、久々の人里に興奮や安堵を滲ませる仲間達と対照的に、ブルースの顔は暗かった。元々が無表情なのに加えて、数日間考え続けても、あの日リンの怒りを買った理由が分からなかったためだ。
 浮かない顔をしていたのはもう一人いる。リンだ。平和に過ごす村人達を見た直後、彼女は今にも泣きだしそうだった。顔を歪めて、歯を噛み締めて。ずっと彼女を観察していたブルースは、その表情が現れてから消えるまでを全て憶えている。ほんの一回触れただけで決壊してしまいそうな彼女の表情は、仲間の一人が彼女に話を振った瞬間、微笑みらしきものに取って代わられた。
 らしきもの、というのは、それがどう見ても微笑みではなかったからだ。無理矢理引き上げられたために頬の筋肉は僅かに痙攣し、目には今に零れてしまいそうな涙が溜まっていた。本人にもその自覚はあったようで、村を見てくると言うや否や走り去ってしまった。

 それを追って道に迷ってしまったのが、現在のブルースだ。
 小さい村というのはあくまで人口の話で、空き家を含めればその規模はちょっとした町に匹敵する。そして、リンはその空き家ばかりの細い路地に入ってしまった。見知らぬ町の入り込んだ路地で誰かを追えるはずも無く、あっという間に迷子の出来上がりである。

「リン、どこだ?」

 声を張り上げて歩き続ける。数日前、不用意なことを言ってしまったのが悔やまれた。万一彼女があの一件を根に持っていて、自分からわざと遠ざかったりしていたら目も当てられない。
 リン、と何十回目に彼女の名前を呼んだ時、背後からぶつかってきた人間がいた。彼は謝ることも無く走り抜ける。仲間達の誰でもない。齢にして七か八の、痩せた少年だった。悪い、と口にしながら腰に手をやった。こういう手口はよく分かっている。幼い頃、散々自分もやっていた。

 予想通り、あったはずのポーチが無い。中身は財布ではなく薬草や薬だが、無くなると困るのは同じだ。小さい背中を追いかける。
 リンを追うのに比べ、子供の確保は格段に楽だった。歩幅の差と基礎体力の差で、ものの数秒で鬼ごっこは終わる。放せ、と暴れる子供の手から易々とポーチを奪い取った。

「盗んでも何にもなんねえよ。ただの草だ」

 中の薬草を取り出して見せると、子供は悪態と共に大人しくなった。薬草を持ち歩くのは戦い慣れした人間くらいで、それに捕まった以上逃げられそうもないと悟ったのだろう。
 他に自分が盗られた物は無かったが、念のために子供の盗品を全て改める。大体は軽い財布で、村人の物か滞在者の物だろう。その中に一つ、見覚えのある巾着を発見した。
 橙色の布地に、小さな花柄。リンの服と同じ柄だった。誰から盗ったのか問いただせば、巾着と同じような布の服を着た少女から盗ったという。逃げる時に慌てていたのか元々緩かったのか、巾着の口は開いていた。中には指に乗るくらいの小さな紙包みが沢山入っている。貴重品ではないようだが、きっと大事な物だろう。回収する。
 その他に自分が知っている荷物は無い。もういいぞ、と少年を放すと、彼は呆気にとられた顔をした後、恐る恐る後ずさりをした。ブルースの手が届かない所まで離れると、そのまま一気に走り去った。

ジルバがいたらまず殴られるだろうな、と思う。拳骨が三、四発降ってきた上で説教だろう。夜のうちに終わったら早い方かもしれない。そんな想像を頭を振って追い出した。まずはリンを探す。話はそれからだ。名前を呼んで歩き続ける。見つからない。
 太陽は既に沈みかけていた。夜になると、彼女を探すのも路地から出るのも困難になる。声の音量を上げ、歩行を小走りに変える。もう、彼女は皆の許へ戻っただろうか? それなら良いのだが。

「リン! どこだ!」

 声が枯れてきた時、自分の叫び声の隙間に、別の声が聞こえてきた。耳を澄ます。もう一度聞こえた。少女の声。北西だな、と方角を確認して、ブルースは手近な家の窓枠に手をかけた。二階建ての家をするすると登り、屋根の上へ。計画的に作られた地区だったのか、似たような形の家が並んでいる。飛び移るには都合が良い。
 助走をつけ、北西に向かって屋根の隙間と路地を飛び越えていく。何度か飛距離が足りなくなったが、屋根にしがみついて落下は免れた。

 リンを発見したのは、路地を四本分移動し、体力がやや厳しくなってきた時だった。屋根の上から呼びかけ、ベランダと窓枠を伝って降りる。突然上から現れたブルースに意表を突かれた様子だったが、巾着を見せると、慌てて自分の持ち物を調べ始めた。盗まれたと気付いていなかったらしい。助かったわ、おおきに。と礼を言うと、彼女は中身を確認し始めた。

「日が完全に落ちると戻るのも大変だし、宿に戻ってからじゃ駄目か?」

 その提案は、彼女に届いていなかった。
 中を見た彼女の顔から血の気が引いている。足りん、と震えた声。どのくらいか問うと、沢山、と。探すか? 地面を睨もうとすると、リンが引き留めるように手を引いた。顔の皮膚が鉄になってしまったような、固まった笑顔で。

「……いや、大丈夫や。明日、昼に探しに来ればええから。帰ろ?」

 嘘だ。直感した。本当に大丈夫なら、こんな作り物みたいな顔をしているはずがない。もっと血の通った自然体の顔をするはずだ。……作り物。

 ああ、そうか。

 昔、劇で目にした笑顔の仮面。既視感の正体はそれだ。本当の顔を隠す、常に同じ表情の硬く冷たい人工物。

「探そう。捕まえた場所は憶えてる。あいつは金目の物以外は盗る気も無いだろうし、多分どこかで落としたんだ。通った道を探せば、最低でも手掛かりはきっと見つかる」
「だから大丈夫やって。あんたも夜はきつい言うたやん」

 だから、帰り道探そ? そう言いながら、彼女の足はそこから動かない。

「……俺達が入って来たのは、北の方向だ」

 あっちだな、と指す。ほな、はよ戻ろ。口ではそう言っても、彼女はその場から動かない。足に力を込めていることは分かった。何で、何でや、というか細い声と共に、力んだ両足が細かく震えている。

「リンは、どうしたい」
「っき、決まっとるわ。もう日沈むし、皆も心配しとるやろうし、早う帰らんと」

 彼女も、本当は気付いている。本音と建前が余りにも乖離しすぎて、制御ができなくなっていることを。

「分かった」

 彼女の手を引いていく。あの子供を捕まえた方へ。

「ブルース? そっち、戻る方とちゃうって、さっき」
「探したいんだろ。俺は夜目もそれなりに利くし、今日は月も出るはずだから探せる」
「でも」
「他の奴は知らねぇけど、俺にはぶつけて良いんだよ。むしろそうじゃないと分かんねぇ」

 何の話、と消え入りそうな声がした。

「……リンの、本当の感情。笑って隠してる、悲しいとか、辛いとか、そういうの。皆は分かるから、気遣い? とか出来るんだろうけど、俺には出来ない。でも、ぶつけられれば多分分かるから」

 返事は無い。代わりに、喉に引っかかったような、断続的な声。振り向かずとも、彼女が泣いていると分かった。

「……皆、ウチを傷付けんようにって気にしとる。同じ仲間なのに、ウチだけ特別扱いや」

 ぽつり、彼女が打ち明け始めた。子供を捕まえた場所には既に到着しており、紙包みを探しながら二人で歩く。

「あれ、でも笑おうとしとったんはあの夜からか? ……分からん。何でやろ。泣きたくなかったんかな」

 本人でも自分の感情が分からないこともあるらしい。落ちていた紙包みを拾い上げながら耳を傾け続ける。

「ウチの居場所、ここだけなんや。なのに、ウチに気遣って、ありがたいはずなのに、皆が遠い気がするんよ」

 握った手に力がこもる。

「気にしてへん振りしたら、皆普通に接してくれるんかなって思っとった。……皆頭ええわ。それとも、ウチが下手だったんかな。バレとった。……でも、今更変えられん、って……」

 ぎり、と歯ぎしりの音がした。

「自分でも、おかしいのは分かっとった。怒ったり泣いたりが抑えられへん。うん。おかしいわ」

 あの日、何があったか教えよか。湿った笑いを含んだ声で彼女は言った。

「回復魔法の本があったやろ。あれにな、蘇生魔法の理論が載ってたんや。ほんの少しでも身体の一部があれば、魂を引き戻せる。随分都合がええやろ。骨の欠片でもええって。……今拾っとるこれな、皆の骨なんよ。そんなつもりで持って来とった訳やないけど」

 それは、と言いかけて止める。蘇生魔法は禁呪だ。失われた命が戻ることは無いと、一時期世話になっていた教会の神父が口を酸っぱくして言っていた。

「ウチも知っとったわ。蘇生魔法は出来んってこと。……昔、村の子によく言うとった。回復の杖でも、命は生き返らんって」

 でも、手を出してしまった。その心情は分からなくもない、かもしれない。もし仲間の誰かが死んだら、そして生き返らせる手段があると言われたら。頼らないなんて確証はどこにも無い。

「当然失敗したわ。派手に暴走して、それを止めたテミが倒れて、マゼンダに怒られて。あんな顔したマゼンダ、初めて見たわ。魔導書、顔にばーんて。最初訳分からんかった。……後は知っとるやろ?」

 頷いた。

「それでもなぁ、皆、ウチにどっか甘かったわ。マゼンダも、落ち着いた後はウチのこと責めんかった。……感謝せんとあかんのは分かっとる。でも、もうどうしたらええのか分からん」

 ひっく、と声に嗚咽が混じる。

「泣いてええのかも分からん。許してほしいって、申し訳なくて絶対に言えん。いつも通り、いつも通りって、頭の中ぐちゃぐちゃになって、ウチ……」

 そこから先は、言葉にならなかった。溜め込んだ感情を吐き出すように泣きじゃくる彼女の背を、少し躊躇ってからさすった。彼女の身体がぴくりと小さく跳ね、子供のようにブルースにしがみつく。自分の肩に乗った彼女の頭を、ぎこちない手でそっと撫でた。

彼女が泣き止むまで、ずっとそれを続けていた。


「……随分帰りが遅くなった理由は、それで全部か」

 ジルバの背後に鬼か悪魔が憑いているように見えた。帰って来ない自分達を仲間は相当探したようで、特にジルバが非常に心配していたらしい。今晩は説教コースだな、と二人で顔を見合わせる。

「……事情が事情だ。だが、次から知らない町や村で治安が悪い所に行くなよ」

 次は裏に何があろうと容赦しないからな、としっかり釘を刺して、彼は二人の分の夕食を取りに行った。厨房を借りて温めなおしてくれるらしい。

「……母さんみたい」

 リンが零した。

「随分おっかない親なんだな」
「そっちちゃうわ。ご飯とか……おっかないんは否定せんけど」

 怖かったわぁ、とリンが笑う。昔を思い出したのか、少し泣きそうな顔で、でも、憑き物が落ちたような顔で。
 胸の辺りがじんわりと暖かくなる。リンが驚愕の表情を見せた。

「ぶ、ブルースが……笑っとる」
「え、本当か?」

 自分の顔に触れる。その時には既に無表情に戻ってしまっていたらしく、どのパーツの位置も平常時と全く変わらない。しかし、そうか。一瞬でも、自分は笑っていたのか。だとしたら、多分あの胸の暖かさは、「嬉しい」とか「楽しい」なんだろう。
 今までろくに動かなかった感情が、この短期間で何種類も見つかった。嬉しい、楽しい、悲しい、……あまり味わいたくはないが、恥ずかしい。これだけ種類が違う気がする。
 それらを並べて、ふと気付いた。全てにリンが関わっている。その理由は分からないが、他の感情も、彼女がいれば見つかるのかもしれない。

 この日、俺は初めて未来を楽しみに思った。


次の話 転嫁