あと5分
「研究テーマ、決まったか?」
エスカレーターの手すりに体重を預けながら、ブロントが気怠げに問う。初夏の大学生四年生には致命傷になりうる質問だった。
「何も。ブロントは?」
「全く」
地下鉄のホームには、自分達と同様に宙ぶらりんで困ったような顔をした学生や、まだ週の真ん中だと言うのに疲れ切った顔の学生が溢れていた。夜八時過ぎ、地下鉄はおよそ十分おき。学食のやや多い晩御飯で睡魔がのさばる頭には、ブロントの落ち着いた声が心地良い。
「そっちの電車、あと何分だった?」
「五分」
「俺の方もそのくらい」
惰性でホームの椅子を探すが、くたびれた顔の一団に占拠されていた。いずれ自分達もああなるのかもね、洒落にならないな。そんな会話をしながら電車を待つ。
「そっちの教授、魔法学者だったよな。エルフの高名な」
「そ。お陰で環境は良いんだけどね。生真面目な先生だからかしら。ブラックって噂が独り歩きしちゃって」
「魔法工学科まで聞こえてきたよ」
「そこまでか……兎も角、お陰様で一部のガチ勢以外は皆成績が足りなくて希望が通らなかった学生だからね。まあ大変よ」
「生々しいな。マゼンダならむしろ教授に気に入られそうなものだけど」
「私は入りたくて入ったしね。ルファ教授、やる気がある学生には張り切ってくれるけど」
「けど?」
「『貴女が興味を持っている分野を挙げてください! 何でもサポートします!』って。本当に何の魔法が来ても許可するし学会にも連れてくわよ、あの人……あのエルフ」
「はは。自由度が高すぎると……ってやつか」
「そう」
やりたい魔法が多すぎる、と溜め息をつく。研究室に配属されれば、教授の指示という方向性を得られると思っていたのだが。
「まあ、教授の専門から選ぶのが無難だとは思ってるわ。確か炎魔法と氷魔法、それから治療魔法と……」
指を折りながら、それらへの興味のほどを確認していく。炎魔法は好きだ。マゼンダが最も得意な魔法でもあるから、研究も進むだろう。一方、研究され尽くした……とまではいかないものの、歴史の長い魔法でもある。新規性のある研究テーマを打ち出すのは難しいだろう。氷魔法は研究以前の問題だ。マゼンダにはジュースに氷を入れようとして講義棟を氷漬けにした前科もある。そのおかげで、暫くの間は魔力制御の研究をしている教授達の実験に引っ張りだこだった。
「……生涯で極められる魔法は一つか二つ、って俺は聞いたけど」
「エルフだからね。魔法に関しては何でもありよ。そこだけは最高の種族ね」
寿命の問題を抜きにすれば、という言葉は胸にしまっておく。代わりに隣の袖をそっと握った。
「……あ、俺の方、来ちゃったな」
「私の方もそろそろね。じゃ、また明日」
「ああ、また明日」
袖を放す。人の波と共に電車に吸い込まれていく姿をぼんやりと眺めていた。
「研究テーマ、決まったの?」
「自立式魔法機械になりそうだ。……大分、こう、教授の趣味が反映されてる見た目の」
エスカレーターの二段下から振り返り、どんなの、と問う。サファイアの瞳がうんざりしたような色に染まった。
「メイドさん」
「……まあ、個人の趣味趣向は自由だからね」
「あれで卒論書くの、かなり嫌なんだけど」
「発表会のポスター出来たら見せてよ。いっそ実物展示したら?」
「勘弁してくれ……」
ブロントが天を仰ぐ。控えめに笑いながら、人の疎らなホームに降り立った。
「君のテーマはどうなったんだ」
「まだ保留。どの道、夏までは院試勉強よ。勉強の合間に考えるわ」
「内部進学でも試験がいるのか」
「嫌んなっちゃうわよね」
肩を竦めながら、電光掲示板に視線をやる。どうやらついさっき発車してしまったばかりらしい。
「あと十分くらいね」
「こっちはあと二分だ」
「あら、いいなぁ。乗ってっちゃおうかしら」
ブロントが分かりやすく目を見開く。気を紛らわすように開閉を繰り返す右手が愉快だった。
「…………明日、俺は一限無いけど」
「残念ながら、ゼミがあるのよね。大人しく帰らないと」
そっか、としょげた声が降る。週末ね、と額をつつくと同時に、電車が近付く音がした。
「え、あ、うん」
「ほら、電車来ちゃったわよ」
「あ、ま、また明日」
「また明日」
可愛らしく狼狽した背中を押す。少し赤くなった頬は、決して気の所為ではないだろう。
「マゼンダ、明日なんだけど」
「ええ」
エスカレーターの手すりに体重を預けながら、彼を見上げた。
「俺の部屋から二駅のところで、小さい祭りがあってさ」
「あら、こんな梅雨時に?」
「水の精霊のお祭りだから、梅雨時にやるらしい。もしよかったらだけど……一緒に行かないか」
最初から週末はブロントと過ごす予定だった。にも関わらずおずおずと提案するあたりが彼の性格であり、マゼンダが気に入っているところだ。
「天気予報次第ね……あ、晴れるらしいわよ」
途端、ブロントが晴れやかな顔に変わる。各天気ごとの表情を見てみたいところだが、それはいずれ出来るだろう。
「尤も、この季節の天気予報は当てにならないけど……」
ブロントの表情が分かりやすく沈んだ。エスカレーターから降り、下を向いた額をつつく。
「何にせよ行く予定は立てておきましょうよ。雨が降ったら家に籠もればいいだけだし」
電光掲示板は、あと一分でマゼンダの電車が来ると示していた。帰ってから通話で、と見るからに機嫌の良いブロントに告げる。うん、と綻んだ声を後に、やって来た電車に乗り込んだ。振り返ると、満面の笑みでこちらを見送るブロントと目が合う。手を振ると、ひらひらと振り返す。暖かくなった心臓を、身体ごと電車が運んでいった。
「晴れて良かったわね」
「ああ! 普段の行いかな」
「あら、そんなに良いことしてたかしら」
意地悪だな、と唇を尖らせる彼にりんご飴を差し出す。マゼンダの色だ、と気取ったことを言うので、目についたかき氷屋でレモン味を注文した。ブロントの色ね、と黄色に染まった舌を見せれば、立ちどころに赤く染まる彼が愛おしい。ゆっくり歩いても十分足らずで端まで着いてしまう小さな祭りは、その小ささのおかげでかえって幻想的だった。街灯は消され、代わりに水で満たされた硝子球の中で魔法の光が輝き、道行く人々に波紋を映す。
「ブルースに教えたら喜んで来たかしら。彼、確か水のところが出身よね」
「……そうだな」
分かりやすく不機嫌な声が漏れたので、いちご飴を押し付けて機嫌を取る。俺がいるのに他の奴の話とか、と口を尖らせ続けるので、綿飴も追加した。むすりとした顔にふわふわした桃色が消えていく。その様につい笑いが漏れた。
「何だよ」
「可愛い恋人で良かったなって」
途端に顔が赤く染まる彼は、やはり可愛らしい。取り繕うように祭りのチラシを取り出すので覗き込むと、彼はふいとそっぽを向いた。「可愛い」と言い続けると可愛らしくなるというのは本当のようで、耳まで真っ赤になる様子がマゼンダは好きだった。
「あら、花火があるの」
「花火というか……花火みたいな水魔法だってさ。その辺の灯りみたいな」
「へえ、面白そうね」
「原理的にはプラネタリウムの方が近そうだな、書いてある内容的に」
チラシに記された花火までは、あと五分程だった。疎らな人の波が中央の広場へ流れていく。どう頑張ってもはぐれないような密度だが、ブロントの手がおずおずと差し出された。自分よりも少し暖かい手を握って、広場へ歩いていく。
「どのくらいの規模なのかしらね」
「小さいお祭りだしなあ」
他愛も無いことを話しながら、目的地へと向かう。惚れた弱みだろうか。付き合い始めてからそれなりの時が経ったが、未だにきょろきょろと挙動不審になるところすらマゼンダは好きだった。何でもない、こういう時間も。
「……広場、ここで合ってるのか……?」
噴水のあるやや開けた空間に辿り着き、チラシを見るためにブロントの手が離れていく。手に残った温度を握っていると、噴水の方角から歓声が上がった。袖を引けば、ブロントも気付いたらしい。彼がチラシをしまうと同時に、司会の声が響き渡った。
「只今より、水光祭の演舞奉納を始めます!」
「演舞?」
「踊るみたいに魔法を使う行事が、そう呼ばれることもあるみたいよ」
ほんの数言の間に、聖職者の装いをした者達が数人で噴水を囲む。する、と周囲の魔力が流れていく気配がした。
「始まるね」
ブロントが囁いた。同時に、演者達の手から溢れた光が噴水に染み込んでいき――水が空へと溢れ出した。隣でブロントが身じろぐ気配がする。魔力に敏感なマゼンダはあの水が魔法の制御下にあると分かるが、そうでないブロントには魔法の暴発に見えるのだろう。彼が庇うように前に立つ。それが嬉しかったので、少しの間黙っておくことにした。
観客達はこの光景を見慣れているのか、動揺する気配は無い。そんな人々の頭上へと水流は高く高く伸びていき、見上げるほどの高さで漸く止まった。
「……暴走じゃない、のか」
「演出じゃない? ちゃんと制御されてるみたいよ」
「……気付いてたんなら言ってくれよ……」
「貴方の背中が格好良かったからつい、ね」
「それはどうも」
ブロントが自分の隣に戻って来る。その間に水流はドームのように広がり、広場全体をすっぽりと覆っていた。かなりの厚みがある水膜の向こうで、屋台の明かりがゆらゆらと揺れる。魔法を修める者の性か、それだけの水量を維持し続けるための魔力量を計算する脇で、ブロントが呟いた。
「何ていうか……でかいな」
「多分、あの中の二、三人で制御してるはずよ。光魔法を使う人が必要な筈だし……補助道具があるにしても、とんでもない魔力量ね。一体魔力剤何リットル分使ってるのかしら。元が相当優秀じゃないと、がぶ飲みしたって間に合わないわよ」
「……そう言われると一気に夢が無くなるな」
好き勝手に言い合うその頭上へ、魔力がいくつもの塊に分かれて集まっていく。魔力の流れに気付いたマゼンダが見上げると、水で出来た天球の中に、いくつもの光が浮かんでいた。星空みたい、と漏れた言葉につられ、ブロントも擬似的な空へ視線を移す。二人分の視線の先で眩い色彩がくるくると水中を舞った。水面に反射した光が、夜の闇に包まれた人々を色とりどりに照らす。回り、点滅し、分かれ、融合し、色を変えながら舞うように動き回り――
「……綺麗だ」
ブロントがぽつりと漏らした。群青の瞳の中で、反射した光が鮮やかに踊っている。
「そうね」
貴方も、とは流石に言わず。また空へ目をやる。光の舞踊は、まだ始まったばかりだった。
「凄かったな。行って良かった」
跳ねるような声音だった。一方のマゼンダは、喧騒から離れた後特有の虚脱感を埋めるように、ブロントの手を握る。
「本当に。もっとゆっくり時間が流れればいいのにね」
「魔法でどうにかなったりしないのかい」
「確かに炎の精霊と時の精霊は密接な関係にあったと言われてるけど……」
残念ながら、時間魔法は全くの専門外だ。極めれば時の流れを切り離すことすら出来るそうだが、マゼンダは初歩中の初歩である加速、減速魔法すら使ったことが無い。大体、時間魔法が使えるなら普段から使っている。
「ルファ先生なら出来るかもね。エルフは時間魔法に造詣が深いから」
「必要あるのか? あれだけ長生きできて時間があるのに」
「あら、時間魔法が欲しくなるのは寿命問題だけでもないでしょう?」
例えば遅刻しそうな時。課題が間に合わない時。もう少し眠りたい時。……地下鉄の五分の待ち時間では足りない時。
「……研究テーマ、時間魔法にしようかしら」
「そういえば、まだ決まって無かったんだ」
「ええ。たった今決めることにしたわ。ルファ先生は大喜びでしょうね。時間魔法の研究に手を出すヒト族は珍しいし、エルフ族は論文や学会に興味を持ってくれないから、新しいテーマを考え放題よ」
「ああ、あれか。新規性ってやつ」
「そ。社会的にも時間魔法研究の確立は求められてた……と思うわ」
「はは、何だか一気に偉い学者様みたいだ」
学会に行ったらお土産話を聞かせてよ、と笑うブロントは、マゼンダが時間魔法を極める気になった本当の理由は察していないのだろう。察して欲しいとも思わない。何か今日は電車がゆっくりだね、なんて笑って、少し長く二人で話す。そんな毎日が欲しいだけなのだから、研究への影響だのは知らずに笑っていてほしかった。幸せなんて、案外それだけで良いのだから。