夜の心臓

2023-02-09

次の話 カラット

 少年は呆気に取られた。
 煌めく結晶が宙を舞う。松明の光が乱反射する。つい数瞬前まで少年を押し潰さんとしていた岩塊が、音を立てて砕け散る。降り注ぐ岩屑の中央に、一人の少女が立っていた。かつての星々を揉みくちゃに潰して流し込んだような、金色の眼を輝かせて。

「大丈夫かい、少年」

 手には異形の鉄槌を、口元には純白の歯を見せて笑う少女。少年は吸い込まれるように――

 頭を地に叩き付けた。

「お願いします、助けてください!」
「……は?」


「……で、何で君みたいな子がここに来たんだい」

 先程までは自分の背丈の倍もあった、今は片手で持てる程度の大きさの石ころを蹴り飛ばしながら少女が問うた。目と同じ金色の髪が、少女が動くたびに揺れる。
 少年は通路の隅に小さくなって座り込みながら、手近な石を恐る恐る手に取った。

「これ、もう動かないんですよね」
「ああ、『心臓』が外れたからね」

 で、質問の答えは? その問いに少年は沈黙で返した。その目は少女を、正確には少女が肩に背負った奇妙な鉄槌を追う。頭の片側は普通の槌のようだが、もう片側には鋭く尖った、角のような突起がついている。

 この少女が現れる前、少年は一人でこの洞窟、村から徒歩で半日以上かかる坑道へやってきた。怪物がうろついているという言い伝えは知っていた。

 最初は何も無く、足場の悪い洞窟をただ歩くだけだった。いくらか進んだ時、不意に何か、とても巨大で硬い物が歩くような地響きがした。構わず進んだ。曲がりくねった道が一際大きく捻じれていた。
 最初は、行き止まりかと思った。いくつもの岩が道を塞いでいたのだ。しかし、大きい隙間があちこちにあったので、そこを抜けようかと思案していた。その時、積み上がった岩の一部がまるで痙攣するように動いた。その動きは見る間に他の岩にも伝わり、遂には岩々の全てが動き出した。
 何が起こっているのか分からず少年が後退りした時、更に激しく壁が揺れ、少年がいた所に岩塊が落ちてきた、いや「打ち付けられた」。
 少年が壁だと思っていた物は、ゆっくりと歩き出した。言うなら岩の巨人だろうか。どんな力によってなのか、いくつもの岩が連なり、腕や足と思われる部位を形成している。打ち付けられた岩塊は手だったのだろう。巨人はそれを振り上げた。顔と思われる部分は無かったが、少年は巨人が狙っているのは自分だと察した。

 突然の出来事に逃げることすらできず、襲い掛かって来る剛腕を見ているだけだった少年を救ったのが、鉄槌を携えて飛び込んで来たこの少女だ。巨人の手を一撃で砕き、間髪入れず胸(と思われる部位)を叩き壊した彼女。つい何も考えずに助けを求めてしまったが、彼女は自分に協力してくれるような人間だろうか。

「何も言わないんだったら、麓の村に送り返すよ。そこにいられても仕事の邪魔なんだ」

 無感情に言い放つ少女を、少年はきっと睨んだ。

「……『心臓』を、探しに来たんです」
「ああ、これ?」

 彼女はそう言いながら、足元から何かを拾い上げ、少年に投げてよこした。反射的に受け取ったそれは、眼球程の大きさの、透き通った石だ。血のように赤く、松明の光を通して、それ自体が光っているようで、とても美しい。

「……石にしか見えないです」
「石だよ、うん。さっきみたいな奴は、この石が核になって動いてる」

 こんな小さな石が、あんな怪物を動かしていた?

 少年が手の中で石を転がしていると、少女は歩み寄り、さっと石を取った。

「綺麗だろ?」
「それは、思いますけど」
「石の怪物は、みんなこれを持ってる。これが無くなると、奴らは動かなくなる。誰が何と言おうと、ああやって怪物を動かしている以上、これは心臓だよ」
「それは、そうかもしれないですけど」

 それでは困るのだ。しかし、その訳を話す勇気ときっかけが少年には無い。話すか話さないか迷う間、目の前の少女は不機嫌そうに手に持った石をコツコツと叩く。

「……鬱陶しい」

 吐き捨てるように少女が言った。

「何したいのか知らないけど、理由があんならあと五秒で言いな。じゃないとほっとくよ。ほら、五、四」
「待っ……」

 待って、と言っても、少女は止めない。

「二、一」
「い、妹がっ」

肺の中の空気を全て出したような勢いで少年は言った。少女が数えるのを止める。

「三日前、妹が……人を、殺したんです」
「人を?」

 少女の声は、明らかな驚愕を含んでいた。

「妹……『ノッテ』と言うんですけど、その日、ノッテが川で魚を取ってたんです。魚って言っても、そんなに大きいのじゃなくて、何匹も取って、ようやく一人分ってくらいの、子魚なんですけど……村の、一番の悪餓鬼が、悪戯でそれを持って行ったんです。今年は作物が全部やられて、その魚が無いと、何も食べられないから、ノッテは必死でそれを取り戻そうと追いかけました。そしたら、その子供が、逃げるのに夢中になって、間違えて流れの速い場所に入り込んだんです。それで、そのまま」

 妹が真っ青な顔で自分を呼びに来た時には遅かった。子供はとっくに溺れていて、彼女と同じくらい青い顔で、下流の岸に流れ着いていた。もう間に合わないことは明らかだった。

「妹は、生きようとしただけなんです。でも、村の大人達は、我を忘れた妹にも責任があると言って……このままだと、妹は明後日の夕暮れ、殺されます」
「……それで、そのことと『心臓』と、何の関係が?」
「村長の娘が、心臓の病で死にかかってるんです」

 飛躍した話に、少女が眉を顰める。

「一人の命を奪ったことは、一人の命を救うことで贖え、と。……俺の村には、『夜の心臓』と呼ばれる伝説があるんです。最も空に近い場所に、夜を閉じ込めた心臓があるそうで、それを取ってきて、その子の心臓の代わりにできたら、妹は助かります」
「……成程、それで『助けてください』か……」

 少年の話を聞き終わった少女は、俯いて独り言を言い始めた。聞いたことない、という言葉が少年の耳に入る。

「……正直、その『夜の心臓』に興味はあるよ。ただ、『心臓』がこういう、何ていうかな、手に入れるのに怪物を倒す必要がある物な以上、それも例外じゃないんだと思うんだよね。こっちも命懸けだし、無償で協力するわけにもいかない」
「そう、ですよね……」

 やはりどこかで期待していたらしい。暗いものが胸に漂うのを感じながら、少年はふらふらと立ち上がった。洞窟を山頂の方へ歩き出す。足取りは、巨人に襲われる前よりも重い。もう一度、微かな望みと共に振り返るが、少女は難しい顔をしたまま彼女の手を睨んでいる。

 今度こそ諦めをつけ、少年は歩き出した。


 どれくらい歩いただろうか。手にした松明が、岩壁に自分の影を映す。壁に付いた、長い間灯がともっていないカンテラ、採掘され、捨てられた石の山、うち捨てられたロープやツルハシ。それら全てが不気味で――特に一度襲われた後では――前だけを向いていた、その時だった。
 キイ、という甲高い声がした。振り返っても、横を見ても何もいない。不思議に思って、上を見ると。
 それは、暗い天井に浮かぶ大量の光る眼だった。

「ひっ……」

 短い悲鳴。少年は走り出した。甲高い声も、後から幾重にも重なってついてくる。駄目だと分かりつつ背後を見れば、数え切れない程の蝙蝠が、自分めがけて滑空してきている。その内の一匹が、少年の髪を掴み、一匹は背中にしがみつく。夢中でそれらを叩き落とすと、蝙蝠は相変わらず甲高い声で叫びながら、床に叩きつけられ砕け散る。しかしただの石片になった同胞には目もくれず、蝙蝠は後から後から、湧き水のように現れる。背中に何匹かが噛みつき、痛みと重さで少年は重心を崩した。背後に倒れた彼の視界に、滝のように蝙蝠が降り注ぐ。せめて頭だけでも守ろうと、腕を顔の上で交差させる。蝙蝠の牙が腕に食い込む鋭い痛みは、来なかった。
 代わりに来たのは、内臓が震えるような爆音と爆風。眼前の蝙蝠たちが吹き飛ばされたのだろう、岩と岩がぶつかる硬い音が響く。

「危なかったね、少年」

 土煙の中から現れたのは、先程の少女。手には黒くて丸い物体を持っている。

「やー、まさかあそこまで蝙蝠型が大量発生してるとはね。発破があって良かったよ。無事?」

 ほい、と少女が少年に手を伸ばす。掴むと、予想よりも強い力で引き上げられる。立ち上がった少年に、少女は笑顔で――いっそ裏があるのではないかと勘繰りたくなるほど無邪気に――言った。

「取引しようか」
「取引?」
「そ、取引。私は君を手伝う。君は私の要求を聞く。どっちの願いも叶っていいだろ」

 確かに自分にとっては願ってもいない申し出だ。しかし、彼女の「要求」とは。金品を要求されたとしたら、その日食べる物すら困る自分達に渡せる物がある筈が無い。
 少年の、夜のような群青の眼が少女を射る。少女は肩を竦めて「別に大したことじゃないよ」と言う。

「ただ、もし『夜の心臓』が首尾良く手に入って、その娘さんが助かったら、私は村長さんとその娘さんの恩人になるわけだ。その時に、ちょっと口利きして欲しい。君を手伝ったのは私だって、証人になってくれるだけでいいよ。あとは自分でやる」
「それは勿論構いませんけど……それだけで、いいんですか?」
「何かくれるってんならもらうけど、君大した物ある?」

 少年の服は明らかに何年も着古されて色褪せ、腕や足は骨ばり、短く刈った髪は栄養が届かないのかパサついている。全くもってその通りだった。

「仰る通りです……」
「何にせよ、私は自分が有利になるんなら何だっていい。君は……尤も、選択肢は無いだろうが」

 少年は、返事の代わりに深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 神への祈りにも似た願いは、洞窟の壁で幾重にも反射した。

「そういや君、名前は? 私はステラっていうんだけど」
「ナハト、です」

 少年と少女、ナハトとステラは相変わらず暗い洞窟の中を歩いていた。違うのは、ナハトの手に拾った誰かのツルハシが握られていることくらいだ。どれだけ歩いても鬱々とした道が終わることは無く、蝙蝠は時たま耳障りな声と共に襲来する。まともに相手をしていたのは最初だけで、最後の何回かはひたすら走って振り切っていた。体が石でできているからか、蝙蝠達は滑空することはできても、上へ飛ぶことはできないらしい。二人を捉えられず地面に激突する蝙蝠達の断末魔は、ナハトの耳にこびりついている。
 「やっぱり地方が違うと名前も違うもんだね」と話すステラだが、それを聞いているナハトには、それに返答するだけの余裕が既に無い。
 武器代わりに手にしたツルハシはやたらと重く、いくら毎日農作業をしている身だと言っても、こうも襲われ走り続けるには限界が来ていた。

「……休む?」 
「大、丈夫、です、時間が、無い、ので」
「あー、期限が明後日だっけ。って言っても時間的にそろそろ夜明けだろうし、実質明日か」
「そう、です、村から鉱山口まで、一日、近く、かかる、から、少し、でも、急がない、と」
「そんな息切れしながら言われてもなあ……」

 正直、今のナハトの歩みはお世辞にも速いと言えない。鳥が歩いてもこれより速いのではないか、と自分自身で感じる程だ。水源が近くにあるのか、追い打ちをかけるように地面も壁も湿気を含みだし、べたついた空気が疲労に拍車をかける。

「水の音……川か……道が途切れて無きゃいいけど」

 そこに着いたら一度休むよ、とステラが振り向く。既に自分と彼女の間には数人分の距離があり、これ以上我を通すことはできそうもなかった。黙って頷く。


 それからどれくらい経ったのか。ステラに言わせれば「結構あっという間」らしいが、少なくともナハトにとっては午前が終わったのでは無いかと思うくらいの距離と時間だった。
 辿り着いたそこは、洞窟というよりは一つの広間のようだった。どんな作用があったのか、それまでは三、四人が並ぶのが限度だった先程までの道と打って変わり、小さい畑なら入りそうなくらいの面積がある。天井は高く、球のように広間を覆い、広間の中央を川が横切っている。壁の内一か所、川が流れ出て行く場所は崩壊していて、そこから下界が一望できそうだ。穴から流れ出した川は、岩場を蛇行しながら麓、ナハトの村の方へ繋がっている。

「絶景かな絶景かな。絵に描いときたいくらいだよ」

 ステラの声も、心なしか楽しそうだ。
 穴は丁度東を向いて開いていた。空は微かに赤らみ、夜明けが近い事を示している。

「それにしても……ここは何でこんなことになってるんだろう」

 ナハトが半ば独り言のように呟く。この空間は、恐らくこの川によって削られて作られたのだろう。しかし、どう考えても広すぎる。

「ん? 村の人間が広げた訳ではないのかい?」
「確かに、この鉱山は俺の村が管理して、実際に昔は掘ってたらしいんですけど……ある日、突然石像が襲いかかってきたとか、化け物が出たとかで、採掘を止めたんですよ。それがもう、数百年は前の話です。今じゃ伝承くらいにしか残ってませんし、皆ここを水源の山としか考えてないです」
「へぇ……その割に、ツルハシとか、壁掛けのカンテラとか、色々あったけど」
「鉱脈は残ってるので、入っていく他所の人は結構いるんですよ。その後どうなったのかは分かりませんが」

 まさか、本当に怪物がいるとは誰も思っていなかったのだろう。巨人に潰されたか、蝙蝠に噛み殺されたか、別の何かにやられたか。ナハトが拾ったツルハシの近くには、服の切れ端のような革切れが落ちていた。
 それでも誰かはここに辿り着いたのだろう。広場の中央、川が広がり始めた辺りに、波止場のようなでっぱりと、そのでっぱりの上にとても古びた、それなりに丈夫そうな木の船が置いてある。余程根性のある来訪者が、鉱物を運び出そうとして作ったのだろう。

「あそこなら川幅も狭いし、飛び越えられそうだ。ナハト、歩けるかい」
「どうにか……」

 いっそ背負っていこうか? とステラはあくまで余裕を見せる。ナハトも体力にはそれなりに自身があったのだが、その自信はこの数時間ですっかり消えてしまった。それとも、ステラの体力が人間離れしているだけなのだろうか。
 川を飛び越えた先で、ナハトは崩れるように地面に転がった。半日以上、下手をすれば一日近く働き続けた足は当分言う事を聞きそうにない。喉も乾いた。

「あ……水……」

 這って川に手が届く場所まで行く。指を入れれば水は冷たく、疲れた自分には心地良く――

「痛っ!」

 その指先に痛みが走った。弾かれたように手を引き上げる。水に浸かっていた部分が火傷のように爛れていた。

「ステラさん、この川毒が……」

 立ち上がり、彼女を探して彷徨った視線は、別の者を捉えた。川の源と思われる場所。水が壁から滲み出し、それが集まっているようなのだが、そこについさっきまでいなかった女性が立っている。髪も肌も死人のように白い。唇は血のように赤く、目は氷で出来ているかのように透明で、ちらちらと、青い光がその中を掠める。人であるようには見えなかった。

「どうかしたかい?」

 村の方を見ていたらしい。背後からステラの声がする。奇妙な女性がいる、と話そうと、ナハトは体ごと後ろを向いた。
 何の前触れも無く、視界を赤い物が横切った。同時に頬に小さな痛み。
 赤く細い岩が、自分の顔のすぐ脇を通り、伸びている。後ろ、つまり女性がいた方を振り向こうとして、今度は何かから足を払われた。派手に転ぶ。そして、頭があった場所を、女性がいた方から高速で伸びてきた岩が貫いていった。

「いいね、ヒトガタは上物だ。ぶっ壊すよ!」

 ステラの足音が女性、いや「ヒトガタ」の方へ駆けて行く。彼女が名前らしきものを言っているという事は、あれは探している「夜」ではないのだろう。
 「ヒトガタ」の唇が、こちらを嘲るように歪む。曲がりなりにも人のような姿をしているが、その右腕には幾つもの赤い筋が血管のように浮かび、肘から先は深紅の石と化してナハトの方へ伸びている。何回もナハトを攻撃してきたのはこれだろう。石の部分はするすると短くなっていく。人の腕の長さに戻り、「ヒトガタ」が再び攻撃しようと腕を大きく引き絞る。
 しかし、その時にはステラが「ヒトガタ」の目の前まで迫っていた。鉄槌が頭めがけて振り下ろされる。石でも頭は大事らしく、そこを守ろうと差し上げられた右腕が一瞬で砕け散った。
 それでも頭を守り通した「ヒトガタ」が脇へ飛び退る。左腕を槍のように尖らせ、必死でステラを牽制している。

「ナハト、いつまで転がってんだい!」
「え、俺も……?」

 どう考えても自分が必要な状況には見えなかったが、言われた通り立ち上がり、ツルハシを拾いに行く。
 拾った時には、既にステラが「ヒトガタ」の左腕も破壊していた。両腕を失い逃げ惑う「ヒトガタ」と、それを追い回すステラ。
 いよいよ自分は不必要な気がしてきたが、ステラも長時間坑道を登ってきた疲労があるのか、その走りは最初よりも遅く、「ヒトガタ」に追いつくことは難しそうだ。
 「ヒトガタ」が川に飛び込んだ。ステラもそれを追って川際を走る。

「ステラさん、その川の水、毒があります!」

 叫び声を聞いて、ステラが川から距離を取る。

「ナハト、向こう岸行って、後ろから!」
「はい!」

 川を飛び越える。

 それにしても、どうして「ヒトガタ」はわざわざ川に入ったのか。確かにステラは攻撃できないが、腕を奪われた以上、それは「ヒトガタ」も同じはずだ。どうせ逃げるなら走って広間の外へ逃げた方がいい。
 万事休すであるのに、「ヒトガタ」の動きに先程までの焦りは無い。まるで、自分だけには違う状況が見えているように。

 ナハトが「ヒトガタ」の背後に辿り着いた。同時にステラが川岸ぎりぎりまで踏み込み、威嚇するように鉄槌を振り抜いた。「ヒトガタ」は滑るように後退しそれを避ける。結果ツルハシが届く距離に来た彼女の頭を狙って、ナハトはツルハシを振り上げた。殺気を感じたのか、彼女が振り向く。
 不意に、彼女の唇が動いた。ナハトがそれについて考えるより早く、川の水が生きているように彼に襲い掛かった。反射的に閉じた瞼を痛みとも熱さともいえない感覚が襲い、その圧力に耐えきれず、背中から倒れる。頭を打ち付け、閉じた視界が白く染まった。
 ツルハシを持つ右腕に圧力を感じ、目を開けると、「ヒトガタ」が自分の右腕を踏みつけ、勝ち誇って笑っている。彼女の上には銀色の水の塊がいくつも浮かぶ。あれは本当に水だろうか? もしあれが毒の原液だったら、あれを被れば……
 危険を悟って藻掻くナハトを馬鹿にするように、毒液の塊は集まり、大きな塊になる。目が細められ、塊はどぷりと粘性を失って零れようとし。
 そして「ヒトガタ」の首から上が消えた。腕にかかっていた圧力も消える。ナハトはツルハシを放して夢中で転がり、彼がいた場所は毒の銀色で埋め尽くされた。

 上がった息を抑えながら立ち上がる。銀色の中に、「ヒトガタ」の体が倒れている。頭はどこに行ったのだろうか。

「いい囮だった」

 突然背後から肩を叩かれて飛び上がる。勿論それはステラで、ナハトの反応に引いた顔をしながら、ほい、とあちこちにひびの入った生首を見せてきた。今度は悲鳴を上げる。が、よく見れば、それは消えた「ヒトガタ」の頭だ。何故か目はくり抜かれている。

「そんなに怖がらなくても、どうせ石なんだからさ」
「う、動かないですよね」
「ああ、うん。目は抜いてあるだろ。こういう特殊な奴だと、『心臓』が心臓じゃなくて、別な部分にあることも多いんだ」

 こいつの場合は目だね、と生首を放して懐から二つの石を取りだす。落ちた頭が固い音を立てて割れた。「ヒトガタ」の眼に嵌っていた石は、朝焼けの光の中で無色と青に輝く。

「……それで、あれは」
「『夜』じゃないね。ヒトガタは、珍しくはあるけど、割とあちこちで見かける奴だ」
「そうですか……」

 落胆するナハトを見て、ステラが困ったように笑う。

「珍しいって言ったろ。こいつがいる時は、大抵他にも大物がいるんだ。もっと先に進めば、『夜』も見つかるかもしれない」

 そう言ってステラは毒液の中に落ちていたツルハシを拾い、川に入れて毒を流し、何度か振って水を払い、ナハトに渡した。

「……村は大丈夫なんでしょうか。川が毒なんて……」
「今までそういう症状が出た人がいなかったなら、大丈夫じゃないかな。毒だって、私達を攻撃するために一時的にあいつが出してたんだろうし」

 行こうか、とステラが歩きだす。ナハトも後に続く。

 どうしてステラがあんなに速く川を越えてナハトを助けられたのか、彼は気付かなかった。


 それからの行程は、拍子抜けするほど平和だった。それでも道は長く、広間を発った時昇り始めた太陽は、頂上に着く頃には天高く輝いていた。
 頂上は窪地で、端から端まで走っても数十秒はかかりそうな広さだ。大昔に誰かがここに通っていたのか、頂上への最後の道は階段が造られていた。
 そして、何も無い。あるのは窪地を囲む人間三人分くらいの高さの岩の壁と、窪地の三分の一ほどを占める池だけだ。岩の壁は、池の上部だけ内側に丸まっていて、天井のようになっている。

「いそうかい? 『夜』は」
「何も無いです……これ見よがしに池がある以外は」
「そうか……」

 階段の最後の段にステラが座り込む。流石に彼女も疲労の色が濃い。ナハトもその隣に腰を下ろす。二人の間を沈黙が流れた。

 どれくらいそうしていただろうか。ステラがぽつりと呟いた。

「『夜』はどんな風に伝わっているんだい」
「えっ……と」

大慌てで頭の中を探る。記憶の中の深い部分にその伝承は埋もれていた。

 高く 高く 天を欲する地上の手

 宝を喰い 雲を掴むも 届かぬ手

 やがて地は割れ 手を伸ばす

 手はついに掴む 空の欠片

 握られた拳 星を砕く

 星は生を奪われて

 夜の鼓動は 手の中に

 生を閉じ込め 月を待つ

 手からの自由を 夜は願う

「……奇妙な歌だ。何でそれが、人の心臓の代えになると思われたんだい」
「最後の『生を閉じ込め』の部分です。命の源で、かつ鼓動する物。それで、俺の村では、それを『夜の心臓』と呼んでます。本当は、それで人の命が助かるのかなんて、誰も分かっちゃいない……」
「……まあ、人は不確かでも信じたがるもんだよ」

 このまま『夜』が見つからなかったら、そもそも存在しなかったら、自分は、妹はどうすればいいのか。ステラが協力してくれたことで弱くなっていた不安が、再び鎌首をもたげる。

「いっそ、あの巨人の『心臓』でも渡すかい? 赤いし、何も知らないんなら簡単に騙せるよ。病気の子は助からないだろうけど、そもそも本物があったって心臓の代わりになる保証はないんだし」
「そ、それはっ……」

 駄目ですよ、と言いかけて止める。期限は明日の日没。しかも、それまでに村に戻らなければならない。本当はこんな所で座っているべきではないのだ。
 それでも、それを実行する気になれなかった。

「そ、れは……」

 言い淀むナハトを、ステラがじっと見つめる。やがて、彼女は優しく笑った。

「真面目なんだね。君は。それとも優しすぎるのかな」

 別にズルしちゃっていいと思うけど、と言いながらステラは立ち上がって大きく伸びた。

「『月を待つ』なら、夜になれば出てくるんじゃないかな。伝承が本当だとしたら。それでも駄目なら、嘘を吐こう」

 日は傾いていく。いつの間にか眠り込んでいたナハトは目を覚ました。太陽は最後の光を地平線から投げかけている。月が上空にうっすらと浮かんでいる。

『月を待つ』

 がばりと勢い良く起き上がる。ステラは池の近く、岩の影になる場所で西日を避けて眠っている。

「ステラさん、月が出まし、た……」

 彼女を揺すり起そうとして、はたと気付いた。彼女の革製のズボンと靴に腐ったような穴が開き、肌は爛れている。あの川の水に触れた、自分の指と同じように。

 「ヒトガタ」の頭を飛ばした時、彼女はどうやって川を越えたか。答えは単純だ。川幅の狭い場所から飛び越えるか、そのまま突っ切るか。そして、彼女は。

「……もう夜かい?」

 焦点の合わない彼女の目は、ナハトの表情を見て怪訝そうに細められた。そして、彼の視線を追う。

「別に、君のせいじゃないよ」
「でも」

 続く言葉は放たれなかった。最後の日光が消え、月光だけが二人を覆った時、何かが地面を揺らしたからだ。
 二人の目線の先で、波一つ無い水面から、群青色の小さな突起が飛び出している。突起……ではない。もっと大きい物の一部のようだ。突起はずんずん上昇し、塊になり、そして目のような部分が現れた。そして塊は顔になり、首が現れ、それは長く長く伸び――

 一体の群青色の蛇に似た巨大な生物が、池から姿を現した。しかしナハトが知っている蛇より遥かに太く長く、口には鋭い牙が並び、長い髭を持ち、胴体は鱗に覆われている。胴の先端には立派な尾がついているのだろうが、大きすぎる故か、まだ池の中から出てきていない。

「竜、型……」

 呆然としているステラの口から漏れ出た単語は、ナハトには全く馴染みの無い物だ。説明を求めてステラを見ても、彼女は戸惑う彼に気付かない。

「まさか……何で、こんな辺境に」

 「竜型」が咆哮を上げた。ステラの目が恐怖に見開かれ、ナハトを向いて叫んだ。

「あいつは駄目だ! 逃げ――」

 その声を嫌がるように、「竜型」がステラ目がけて突進した。半ば押し倒すようにして、ナハトが彼女を庇う。彼の背中のすぐ上を、途轍もない風圧と共に、「竜型」の体が飛んで行く。
 風が止んだ。池を見れば、「竜型」が浮遊している。群青の、夜色の透明な体は月光を受けて眩しく輝く。巨大さも相まって、それはまるで夜そのものが輝きながら二人の上にいるようだった。

「『夜』……」
「『竜型』だ。この国に一、二体くらいしか確認されてない、一番の希少種だよ。……恐らく、『夜』はあいつだろう、けど」

 「夜」は二人の侵入者を警戒しているのか、池の上で、相変わらず尾を池の中に入れたまま漂っている。

「……『竜型』の『心臓』を求めた人間達が、数十人でかかって行って全滅したこともあった。私達だけでどうにかなるような相手じゃない」

 だから逃げろ、とステラが繰り返す。しかし、ナハトは、その言葉が耳に入っていない様子で、ふらりと立ち上がった。

「ナハト、あいつは駄目なんだ、飛んでる間に」
「ステラさんは逃げてください」
「なっ……」

 ステラが瞠目する。一瞬の沈黙の後、滝のようにまくしたてた。

「馬鹿か! 死んだのはただの数十人じゃない、私みたいな、怪物狩りを仕事としてる数十人だ! 君が帰らないと妹が死ぬんだろ!」
「それはそうですけどっ」

 それでも、自分が探していた『夜』が目の前にいる。あれの「心臓」があれば、心苦しい嘘を吐かずに済む。妹も助かるし、あの少女の死を見ずに済むかもしれない。

「……ナハト、君が言ってた村長の娘ってのは、可愛い子なのかい」
「え、それはまあ、俺にとっては……向こうは眼中にも無いでしょうけど」
「そうかい」

 ステラが立ち上がる。立ち去るかと思われた彼女は、隣に落ちていた鉄槌を構えた。

「……逃げないんですか?」
「一人だけ逃げて死なれても、後味が悪いんだ。君は梃子でも動かないだろうし……いくら『竜型』でも、心臓さえ無ければただの石の塊だ。あいつが大人しい間に探すよ」

 分かりやすい場所にあれば楽だったんだけど、とステラが「夜」を見ながらぼやく。「夜」の体はどこを見ても一様な群青色で、その透明な体の中にも、特別な場所は見当たらない。

「その『竜型』の『心臓』って、どこにあることが多いんですか」
「さあ。倒せた人間がいないからね」

 とは言っても、と彼女が続ける。

「他の希少種は、さっきの『ヒトガタ』みたいに、頭や心臓部みたいな、重要な場所に『心臓』があることが多いんだ。胴体に無さそうだし、多分頭かな」

 このままじゃ届かないし、ちょっと刺激してみようか。彼女はそう言うと、鉄槌を真上に振り上げ、大音と共に地面に叩きつけた。「夜」はその音が気に障ったのか、鋭い双眸で二人を睨み付けると、再び突進してくる。

「まともに喰らうと死ぬよ! 引き付けて殴れ!」

 彼女はその言葉通り、「夜」の頭を僅かに横に飛んで躱し、隣を通り過ぎようとするそれに鉄槌を打ち付けた。ナハトもツルハシを振るが、惜しくも首筋を砕くだけだ。
 そして、「夜」は二人の間でぴたりと止まった。柵のように二人を隔てた胴体が、鞭のようにしなる。そしてツルハシを振った直後で無防備なナハトを薙ぎ払った。池の上に吹き飛ばされ、壁に激突し、息が詰まる。どういう訳か池の水は「夜」が現れる前より減っていて、剥き出しになった岩肌に彼はずり落ちた。同じように吹き飛ばされたらしいツルハシが、池の反対側に転がる。

 身体が痺れて動かない。ステラがこちらに向かって何か叫んでいるのが聞こえる。頭の半分を砕かれた「夜」が怒り心頭といった様子で雄叫びを上げた。
 その声に呼応するように、地表から群青に輝く無数の物体が、「夜」の顔と首に集まっていく。
 光が集まった所から、「夜」の顔が再生していく。そして数秒後には、元通りの獰猛な顔が現れた。

 再生する。つまり、いくら体を壊そうと無意味。

 彼女の言った通りだ。早く逃げれば良かった。そうしたら、せめて妹は――

 動けない。


『兄さん、もうすぐ集会だよ』

 黒い髪の少女がふんわりと言った。大切な妹。明後日の方向を向いていて、顔が見えない。

 ……確か自分は、鉱山へ向かったのではなかったか?

『レイマーさんちの娘さんが、病気だって。母さんと同じ』
『覚えてない? 兄さん相手にされてなかったもんね』
『綺麗な人だったなあ。村長の娘だってのに、気取ったとこ無かったし。あ、でも、結構不愛想だったかも』『……』

『ねえ、兄さん』

 言い淀むことなくまくし立て続けていた、妹がゆっくりと振り向く。死人のように真っ白な肌。ナハトは首を傾げた。彼女の顔は、こんなに白かっただろうか?

『早クシナイト兄さんノセイデ、私達死ンジャウヨ?』

 白い顔の少女が、赤い唇で哄笑した。

「待っ……」


 がばりと起き上がる。幻を見ていたのは一瞬の事だったようで、遠くでは相変わらずステラがこちらへ叫び、ナハトの事など眼中にないらしい「夜」が彼女を追い回している。

『兄さんのせいで』

 「夜」の頭は再び形を失っている。しかし、見る間に光が集まり、彼女が折角与えた傷は修復されていく。自分が言い出した事で、彼女がそこまでする理由も無いのに、彼女が戦っている。
 自分のせいで、彼女まで死なせていい訳がない。けれど、今から逃げたところで、「夜」が自分達を見逃す確証はない。せめて、修復に時間がかかるくらいには壊さなければならない。

 「心臓」はどこにある。「ヒトガタ」は、自分にとって最も大事な頭を必死で守っていた。「夜」は反対に、平然と頭で攻撃してきている。修復できると踏んでの行動かもしれないが、恐らく頭に「心臓」は無いのだろう。
 胴体も、攻撃に使ってきた。そもそも胴体は全て同じような半透明の群青色で、特別な場所はありそうにない。
 あとは、未だ池に入ったままの尾だろうか。

 尾に近付こうと、ナハトは池に足を踏み入れ、奇妙な事に気が付いた。
 水ではない。水だと思っていた物は、硬い群青色の石で、ナハトが乗ってもびくともしない。そういえば「夜」が現れた時も、あれだけの大きな物が出てきながら水面にはさざ波一つ無かった。
 池の反対側まで行き、ツルハシを拾う。池の中に液体の部分は少しも無かった。どれだけ経っても「夜」の尾が池の中から出る気配は無く、へその緒のように「夜」と池を繋いでいる。

あるいは、池に「夜」を繋ぐ、鎖のように。

「ナハト、頭に無い! そっちで見つからないか」

 ステラの声。彼女を追って「夜」が体を動かす度に、池の水、いや石は減っていく。しかし決して尾は池から出ない。

 「夜」は、池から出られない。

「ステラさん、見つけたかもしれないです!」

 声の限り叫ぶ。

「限界まで池から離れてください!」

 返事代わりに、彼女が鉄槌を大きく振った。走り出す。「夜」も彼女を追い、池から離れて行く。
 水位が、つまり石の厚さが指一本分程しか無くなった時、それは見えた。

 「夜」の尾は池があった場所の中心から生えている。その中心部、尾の根元に、一際群青が濃い場所がある。そこにだけ数え切れない程の金の塵が含まれ、月光を反射して幻想的に輝く。これだ。
 大きくツルハシを振りかぶり、尾に打ち付ける。漸く「夜」がナハトに気付き、腹の底を揺らすような咆哮を上げ、風のように戻って来ようとする。
 が、ステラがそれを遮った。方向転換した「夜」の顔の前に躍り出ると、全力で鉄槌を振り下ろし、「夜」の頭が木端微塵となる。
 もう一度尾を砕く。もう一度。「夜」の頭部は再生し、再びナハトに迫ろうとする。集まる光が消え、元通りの顔が現れ、再び胴が浮き上がり――

 遂に「夜」の尾が完全に砕けた。

 「心臓」との繋がりを失った胴から先が轟音と共に地に落ちる。しかし、また復活しないとも限らない。ナハトはツルハシを振り続け、ついに亀裂は「心臓」の近くへと達した。
 次の一振りで走った亀裂で、「心臓」と池は完全に分離した。金色の入った群青の石を取りだした時には、「夜」の巨躯はピクリとも動かない。

 ……ステラはどこだろうか?

 落ちた衝撃で飛び散った「夜」の欠片に何度も足を取られながら、巨体の間を探す。

「ステラさん、何処ですか! ステラさん!」

 窪地の反対側に彼女は倒れていた。「夜」の落下に巻き込まれたのか、片足と片腕が不自然な方向に曲がっている。恐らく足が毒にやられたせいで逃げ遅れたのだろう。名前を呼んでも、揺すっても、起きる気配は一向に無い。危険な状態なのは、誰が見ても明らかだ。
 一刻も早く村に連れて戻らなければ、この怪我では助からない。けれど、果たしてどれだけかかるのか。山をここまで登るのに、途中のトラブルを差し引いても、歩いて一日はかかった。村まで更に半日。走ったとしても、村まで一日はかかるだろう。しかも、彼女を背負って。おまけに、妹の処刑の期限は日没。それには到底間に合わない。

 ――彼女を置いて一人で走る――

 あまりにも卑怯な考えを、すぐに振り捨てる。しかし、時間という現実は無慈悲に彼を追い詰める。迷いで震える手で、それでもナハトはステラの腕を掴んだ。


 日が暮れようとしている。

 少年が向かった、そして野垂れ死んだのだろう山に太陽が沈んでいくのを見ながら、村人達は憂鬱に溜息を吐いた。
 あの日が完全に沈んだら、彼の妹を殺さなければならない。決まりとはいえ、誰がまだ十五、六の少女を殺したがるだろうか。しかも、彼女は極悪人でもない、ただの善良な村人だ。

「何も、命まで取らなくてもねぇ」
「よりによって、死んじまったのが村長の甥っ子だったのがなぁ。温情を出そうとしたら、あそこのカミさんが猛抗議したんだってよ。流石に妹からそれをやられりゃ、村長だってどうしようもねぇ」

 村人達は気の毒そうにこれから処刑される少女を見る。彼女は何も言わず、何も聞かず、ただ山を見ていた。
 太陽が沈む。山の頂点から光が僅かに漏れ出るだけとなった時、不意に村の一部がざわついた。

「……?」

 少女が声のする方を見る。それは、山から流れる川がある方向だった。船が、女の子が、といった単語が聞こえるが、何が起こったのかはさっぱり分からない。

「時間だ」

 彼女の隣に立つ中年の男が厳粛に言った。その目は、彼の手の中の縄を見て、苦しげに歪む。

「……最期に何か言いたいことはあるか」
「最期……」

 私、死ぬんだ。少女は俯き呟いた。声は震え、申し訳程度に縛られた手には汗が滲む。顔は病人のように青い。

「殺さないで、ください」

 それは、少女の声ではなかった。顔を上げる。一人の少年が、ずぶ濡れで、今にも倒れそうになりながら、それでも男の手を掴んでいた。

「……兄さん!」


「好きな子、回復したんだって?」

 がらんがらん、と音を立ててナハトの手から農具が落ちた。

「……分かりやす」

ステラに対し、彼が真っ赤な顔で抗議する。

「す、好きとは誰も言ってないです! 綺麗だなーとか思ってただけで!」
「あはは。でも兄さん、結構脈あると思うよ? 何てったって、命の恩人みたいなものなんだから」
「それはステラさんだよ……俺、ずっと大した役に立たなかったし、結果死なせそうになるし……」
「まあ、確かに『夜』を倒すなんて言い出した時は、こいつ死ぬなって思ったけど」

 比較的弱い奴で良かった、というステラの言葉に、ナハトが再び農具を落とした。

「……あれで、弱い?」
「何だかんだどっちも生還出来たじゃないか。本場の竜型は、火を噴いたりもするらしいよ。持ってた能力が再生だったのが救いだったね。私の腕と足も、あと数日したら治るらしいし」

 ステラが包帯を巻いた腕を見せる。怪我が治るまで兄妹の家に泊まっている彼女は、いつの間にか村人とも妹、ノッテともすっかり打ち解けていた。

「そういえば、結局何のお礼も出来てないですけど……」
「ああ、あれかい。村長さんからは、どうせ使わない山だから好きに持って行っていいってさ」
「……え、ステラさん山持ってくんですか?」
「いやいや」

 流石に全快してても無理だよ、と苦笑する。

「大きい街の方に行くと、土地でも家でも人でも何でも買うような輩が沢山いてね。そいつらが、ああいう綺麗な石をとんでもない額で買うんだよ」
「とんでもない額?」
「うん。金銭感覚が吹き飛ぶよ」
「へえ……私達の農具を新しくできるくらいかな」
「いや、農具どころか豪邸が建つよ」
「ごう、てい……?」

 辺境の村の常識には存在しない単語。

「ごーていって何だろ、兄さん」
「建つって言ったら……大きな水車とか?」

 それを聞いて、ステラが噴き出した。

「あ、私達の事田舎者だって思いましたよね!」
「ふふっ……いや、ごめ……ははっ……や、二人共可愛いなあって……」

 一通り笑った後、豪邸は大きい家で、街にはそれが沢山あるのだとステラが話す。やがて、ノッテがどこか遠くを見ながらこぼした。

「そっか……楽しいんだろうなぁ……」

 その言葉に、気まずい沈黙が流れる。確かに処刑は免れた彼女だが、死んだ子供の家族との関係もあり、村の中で彼女の肩身は狭かった。今のナハトにとって、一番の気がかりもそれだった。

「……一緒に来るかい? 命の保証はできないけど」
「え、でも、邪魔じゃないですか」
「一人じゃ危険だからね。今回は偶々あの広間に舟があって、ナハトがいて助かった。でも、一人で動けなくなると大抵死ぬ」

 少なくとも私は助かる、でも来るかどうかは君たち次第。勿論無理強いはしない。そんな提案。

「やっぱり難しいし、忘れてくれ」

 ステラはそう言って家に戻ろうとした。いつも一緒にいる仲間が欲しい。常に思ってきたが、少なくとも出会って間もない、しかも戦闘経験があるわけでもない兄妹に頼んでいい事ではない。怪我が治ったら、街で他をあたってみよう。
 扉を開けようとして、すぐ後ろに二人分の気配を感じた。振り向けば、何故か二人は深刻な顔をしていて――


「ナハト、十年前のこと、覚えてるかい」
「十年……ああ、もうそんなに経つのか」

 岩だらけの登山道に、月に照らされ影が二つ伸びる。

「あの時、一個だけ聞けなかったことがあるんだ」
「ステラが?」
「ああ」

 影の片方が空を仰ぐ。群青の夜には、天高く輝く月以外、何も無い。

「私の名は、『星』という意味なんだそうだ。ただ、そんなもの聞いたことも見たこともない。……でも、君の村の伝承に、『星』とあっただろう」

 問われた影が、古い記憶を探って視線を彷徨わせた。

「俺も、言い伝えでしか知らないけど……大昔、空には小さな、本当に粒みたいに小さな沢山の月があったらしいんだ。きれいだったらしいよ。それで、昔の人はそれを道しるべ代わりに……ああ、そうか」

 影は何かに納得したのか深く頷いた。

「どうかしたかい?」
「いや。君にぴったりな名前だと思って」
「それはどういう……」

 その声は、道の先から聞こえてきた別の声に掻き消された。

「お兄ちゃん、ステラさん、何か強そうな奴出たよ!」

 二人は顔を見合わせ、共に道の先へと走り出した。



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