空洞に愛を

2023-01-06

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精霊の愛し子
 精霊達から特に気に入られ、その加護を受けた者を指す。単に精霊の力の一部を使えるようになるだけのこともあれば、完全に外界から守られた空間にて守護される、所謂神隠しであることもあり、時には愛し子の存在そのものが消える。
 また、現在は多くが絶滅してしまったが、種族全体として精霊の加護を受けた魔物や亜人族が存在し、それらの血が混ざった人間をこう呼ぶこともある。
 この用法の場合、特に「愛し子」に魔物の血が混ざっている場合は、蔑称として用いられる。
(エルフ達の文書より抜粋。彼らの禁忌に触れる内容だったようで、書物に名称はない)


「るんるーん、ふふーん」

 ふよふよと漂い、広大な草原に旋風を巻き起こす。風の精霊はご機嫌だった。勇者たちによってとうとう魔王が倒されたのだ。尤も、自由気ままな風の精霊である彼女にとっては、人間が生き残ろうが魔物が全てを蹂躙しようが関係ない。しかし、勇者が魔王が、と常に頭を悩ませていた友人――正確には友精、とでも呼ぼうか――の気が晴れるであろうことは、彼女にとっても非常に嬉しかった。
 加えて、魔王討伐に同行していた風の精霊のお気に入りが、無事生還したのだ。束縛を嫌う性質故に、他の精霊達と違って彼女は自身の眷属を持たない。そのため、たまにできる「お気に入り」は彼女が友以外で唯一執着心を持つ存在だった。

「ふんふふーん、るる、るーん」

 今日は鼻歌も調子がいい。このままどこにだって飛んでいけそう。そう思った時には、既に彼女の体は遥か彼方へと飛んでいた。
 ここ、どこだっけ? ふよふよと低空飛行をしながら周囲を見渡すと、あの「お気に入り」と魔王討伐隊が彼女の目に留まった。
 ラッキー。彼女は満足げに微笑むと、「お気に入り」、黒髪の格闘家の少女がよく見える位置に留まった。

 少女達は、以前と比べて明らかに穏やかだ。眺めている間に一度魔物の群れに襲われたが、あっという間に群れを壊滅させた。それ以降は魔物のまの字も見当たらない。

 そっかあ。魔王倒されたし、そりゃあ平和にもなるよね。

 そうぼんやりと考えた風の精霊の頭を、雷のような閃きがよぎった。

 ……ってことは、もう戦力が減っても困らないよね。

 一度思い立つと、実行したくてたまらない。彼女は準備をするために飛び立った。


「飛翔の地?」
「そ。簡潔に言うと、風の精霊のテリトリーよ。かつての聖域でもあるわね。野営するには丁度いいんじゃない?」
「それにしては魔物がいたが」
「かつての、ですよ。遥か昔は、風の精霊を崇める人々が細々ながらここを維持していたそうです。独特な儀式を行い、時には生贄を出すこともあったとか……我々エルフ族は大地の精霊から祝福を授かっている故、あまり風の精霊についての知識はありませんが、ここの伝承は残っていますよ。何でも、全ての風はここより出ずるとか」

 ですから、ここからなら風に乗ってどこへでも行けたそうですよ? とルファがブロントを見た。話を聞いていたミドリとテミが感嘆の声を上げる。ジルバも興味深そうに頷く。皆には、そんなに行きたい場所があるのかな。座りつつ周囲を警戒しながら考える。

「なあリン、行きたいとこあるか?」

 視線は相変わらず周りにやりながら、隣に座るリンに問う。一瞬隣で彼女が身じろぐ気配。その後、消え入りそうな声で、帰りたいんとちゃうかな、皆。と答えが返ってきた。続けて、ブルースはどうなん? と。
 ルファとか俺じゃなくてリンは、と言いかけて、気付いた。帰りたいのは、多分。
 でも、彼女が帰る場所はない。

 魔王を倒して、仇討ちの旅が終わって。彼女は何処へ向かうのだろう。


「残して来た家族……とかって、皆はおるん?」

 その日の夕飯の時だった。家族の話を、それもリンが持ち出したことで、空気が凍り付く。事情を知らない――本人から言うのでなければ触れない方が良いだろう、そう周りが判断したからだ――ミドリとルファは俺達の反応に戸惑ったようで、顔を見合わせている。

「俺はいないな。こいつが兄弟みたいなもんだ」

 場に満ちた緊張感を押しやり、ブロントを指しながら答える。指された『兄弟』は張り詰めた顔が嘘だったように朗らかに笑った。

「僕も血が繋がってる人はいないから、家族はこの手がかかる弟くらいかな」
「頼りねぇ兄が何か言ってんな」

 ブロントは答えず、仕返しとばかりに焚火から俺が狙っていた肉をかっさらった。この野郎、とやり返そうとするが、生憎こいつの目の前にはまだ赤い肉しかない。分かっててやりやがったな。空を切る俺の手を見て、ブロントがしたり顔をする。

「何やってんだか」

 溜息と共にマゼンダが呆れる。あたしには特にいない、と語る彼女は、その内容とは裏腹に寂しそうにも悲しそうにも見えない。いないものはいない、と割り切っているのだろうか。そうだとしたら彼女らしい。

「俺も別に」
「クロウには私がいます!」

 ふんす! と自信たっぷりにテミが笑った。

「それに、街の子供達も、クロウを待ってますよ。帰ったら剣術を教えてもらうと意気込んでいた子もいますし。そうです、教会の皆さんも待ってます! それに……」

 あの人も、あの人も、とクロウを待っている人々を挙げていく彼女はとても生き生きとしている。きっと、クロウだけでなくテミのことも待っている人々なんだろう。ミドリやルファが彼らの帰りを待っている部下達の話をする時、全く同じ表情をしていた。

「俺は、故郷に両親と弟妹達がいる」

 皆元気だといいんだが、とジルバが呟いた。……そういえば、親はもう高齢だと聞いたことがあったような。いつのことだっただろうか。

「ジルバの弟妹って、似てたりするの?」

 そしたら見てみたいなぁ、とティンクが彼の肩に乗る。自分が話すのを回避した理由は、俺達が踏み込んではいけない。らしい。ブロントとジルバとマゼンダと……大体全員から釘を刺された気がする。

「あたしは仲間全員が家族みたいなもんだな! まあ、話すまでもないんだけどさ」
「アマゾネスの結束は強いですからね。ところでミドリ、私はあなたと」
「その面倒臭さを無くせんなら、考えてやるよ」

 たちまちルファの目が輝く。本当ですか! と叫んでミドリの手をひしと握るので、そういうとこだよ、と彼女が聞き分けのない子供を見る目をした。数人が笑う。その数人の中にはリンも含まれている。それを確認した瞬間、何故か心臓が縮んだ気がした。
 旅の間に染み付いた一種の本能で周囲を確認するが、脅威となるものは見当たらない。理由もなく辺りを見渡す俺に、リンがどうしたのかと問う。気のせいだった、と答えると、ならよかったわ、とくしゃりと笑った。また心臓が縮む。……俺、寿命なのか?


「俺、もうすぐ死ぬかも」
「多分ないから安心しなよ」

 賑やかな談笑として終わった夕食の後片付けをしながら、ブロントに先程のことを相談した結果である。少し雑過ぎないだろうか。

「ふっふっふ……幾十年を生きてきたエルフであるこの私にははっきり分か」
「恋だな」
「ああっミドリ! 折角私が言おうとしていましたのに!」

 大袈裟に衝撃を受けた表情をするルファ。しかし、俺を含めた全員の興味はそこにはない。

「恋? 誰が、誰に?」
「お前が、リンに」

 こんだけ患ってんだ、確実だろ? とミドリが諭すように言う。

「お前ら仲いいしさ」
「気が合うからだ」
「戦闘中も行軍中もよく二人でいますし」
「戦い方の相性がいいし、行軍中は……」
「心臓が痛いって、ドキドキしてるってことだよね。しかもリンが笑った時でしょ?」
「……」
「恋愛感情じゃないってこともあるかもしれないけどさ、随分大事に思ってんのには違いないだろ」
「そうそう。もうすぐ旅も終わっちゃうんだし、その辺の気持ちは早めに整理しときなよ?」

 ブロントはそう話を締めくくると、軽く伸びをしながら立ち上がった。その目がテントの方に向けられ、何かに気付いたように細められた。その直後に向けられた満面の笑み。……この顔をしたブロントは、大抵変な悪戯を考え付いている。

「じゃあ、後はよろしくね。ブルース」
「……は?」
「今日、見張りブルースの番だったでしょ? どうせ全部片付け終わる方が交代より早いだろうし、多分魔物は出ないしさ」

 仕事押し付けて放置かよ⁉ という抗議を意に介さず、ブロントは、隊長命令ですー、と手をひらひらさせながらテントへ戻っていった。突然の放置命令に、ルファが目線をテントと俺の間で行ったり来たりさせている。が、ミドリに腕を引かれ立ち上がらされた。

「……いいよ。別に」

 不貞腐れながら言うと、ミドリはこちらを見て、後は若い者同士でな、とテントの入り口を顎で示した。
 水色の瞳と黒髪が仕切り布の隙間から覗いている。俺がそれに気付いたのを確認すると、ミドリはテントに戻って行った。ルファも、お休みなさいー! と間延びした声を残しながら引きずられていく。
 何だかんだあの二人は仲がいい。彼らを眺めていると、入れ替わりでリンがテントから出てくる。俺から目を逸らしながらゆっくりと歩いて、俺の隣に腰を下ろした。

「……」

 どうしたもんかなあ、と彼女の横顔を眺めながら考える。勿論食器を洗い続けながら。
 当然ながら夜も遅く、俺の目でもよく凝らさなければ周囲が見えない暗闇だった。リンの髪は夜に溶けて、昼色の瞳が篝火を受けて夕焼け色に輝いている。綺麗な目だ。炎が風を受けてゆらゆら揺れる。その反射に見入っていると、不意にリンがこちらを向いた。

「……ウチの顔に何か付いてるん?」

 顔と体は俺に向けて、目を伏せて、篝火のせいか頬は赤い。この表情には何て名前が付くんだろう。

「いや、付いてない」

 首を振る。質問にはしっかり答えたと思うのだが、彼女に納得した様子は無い。数秒の後、彼女を凝視していた理由を問われているのだと気付く。

「目が綺麗だって思って見てた」
「目?」

 きょとんとした顔。これは詳しい説明を求められているのか。綺麗だと思ったから、以上の説明は思いつかないが。さっきまでの思考をなぞって語れば、それが説明になるのだろうか。……俺でもさすがに憚られる。

「……変わっとるなあ」

 再び焚火の方を向きながら、彼女は肩をすくめて笑った。変わっとるなあ、うん、変わっとる。馬鹿にするような雰囲気の笑いではなかった。本当に面白がっている口調で、でも満面の笑みとは違う、どこか寂しそうな顔で。

「……マゼンダ達がな、明日、ここから転移できないか試すって言うとるんよ。今、テントの中で魔法を組み立てとる。もし上手くいったら、ミドリとルファは早うジャングルに帰れて、待っとる皆も安心するやろ? テミとクロウは神殿の街に家族代わりの人がおるし、ジルバは親を残して来たって。成功して欲しいはずや。成功する方がええんよ」

 ゆっくりと始まった彼女の口調には、俺に言葉を挟ませない静かな力があった。

「ここに着く二、三日前やろか。最初にマゼンダとティンクが実験したい言うてたの。……ウチ、あの二人が失敗するとこ、想像できひん。おまけに、ルファも手伝うて。成功するに決まっとるやろ、そんなん。ウチらの旅は、多分今日が終わりなんや」
「いきなり家族の話を始めたの、それが理由か?」

 こくりと頷く。

「……最後の夜なら、楽しい話がええ」
「楽しかったか?」
「楽しかったわ。……でも、何やろ。すごい寂しい」

 彼女はそう言うと、膝を抱えて顔をうずめてしまった。ふと、昼に感じた疑問が頭をよぎる。

 ――彼女は何処へ向かうのだろう?

「……もし、本当にこっから飛んでいけるんだったら」

 彼女は頭を上げない。聞いてはいるようで、肩がぴくりと震えた。

「未開の地とか、帝都より更に南の街とか、好きなように行けるな。……自由に旅して、気に入ったらしばらくそこにいて、また好きな時にどっかに行けばいい。別に、ここが使えなくてもそうだ。きっと楽しいよ」

 これは、あの疑問の答えになるのだろうか? 何かが足りない気がして、俺にはその正体が分からない。それでも彼女はゆっくりと顔を上げて、泣きそうな顔で笑った。おおきに、と消え入りそうな声。

「礼を言われるようなことか?」
「ウチが言いたい思うたんやから、好きに言ってええやろ」

 黙って受け取らんかい、といつもの朗らかな調子で俺を軽く小突く。もしかしたらこのやり取りが最後かもしれないのか。そう考えると、確かに彼女が言った通り寂しい、気がする。これまで寂しいなんて思うことは無かったが、この時間を惜しむような、楽しいのに悲しい感じは、多分寂しさで合っている。

「……そういや、これが最後って思ったんだったら、何で俺のとこに来たんだ?」

 仲良い奴らいるだろ? と尋ねると、何故かリンは口を尖らせる。

「…………言わんと分からん?」
「分かるわけねぇじゃん。他人の考えてることなんざ」

 そうや、そういう奴やったわ、とリンがぶつぶつ呟く。

「……ほんと、他にもいたっちゅうのに、何でやろ……」

 彼女は再び顔を埋めてしまった。あー、とか、うー、とか、意味のない音が隙間から漏れている。

「――――」

 彼女が、何か、意味のある言葉を口にした気がした。しかし、隙間を通り抜けたその声はくぐもっていて、その上絶えず吹いていた風が一際強まったため、それを聞き取ることが出来なかった。もう一度、と頼もうとして、けれどそれは出来なかった。
 全身に寒気が走る。心臓が悲鳴を上げるように早鐘を打ち出した。前触れなんか一切無い変化に戸惑う頭に、体全部がここから逃げろと訴えている。

「……ブルース?」

 俺の異変を感じ取ったのか、リンが体を寄せる。気遣うように差し出された左手を、何故か俺は避けていた。薬指にはめられた疾風の指輪が悲しそうに光る。……疾風の指輪? 殴った時に壊れそうだからと、彼女は一度もそれを付けたことがなかったはずだ。第一、今はジルバが装備していて――

「プレゼントだよ! 綺麗でしょ」

 そう言ったのは、リンでも、勿論俺でもない。リンに至っては、気付いてすらいなかったかもしれない。

 リンの背後に目を凝らすと、『彼女』が見えた。空色の髪と瞳、純白の肌。尖った耳と雲のような下半身が、俺の知らない生物であることを如実に示している。その顔立ちと、団子を二つ作って髪を垂らした出で立ちから、彼よりは彼女が相応しいと思われる。彼女は背後からリンを抱きしめるような姿勢で、左手を伸ばして指輪をなぞりながら、先程の台詞を宣ったのだった。にこにこと笑うその表情からは、一片の悪意も感じられない。では、このうすら寒さは何だ?

「―—ス、ブルース? どうしたんや、なあ、聞こえとるか?」

 リンの声が、ひどく遠い。

「そんなに怖がんないでー? 君に何かしたら、水ちゃんに怒られちゃうし」

 普段怒んない子を怒らせると怖いんだよー? と、状況に全く見合わない呑気な声で彼女が言う。

「……だれ、だ、おまえ」

 辛うじて喉から出た言葉がそれだけだった。全身を苛むこれは、恐怖? いや、それとは毛色が違う。

「私? 私はね――」

 続く音の並びを、俺は聞き取れなかった。聞こえはしたが、おおよそ人の言語ではなかった、が正しい。強いて言うなら、ウィスプ達が時折発する鳴き声と似ている気がする。文字、言語としては理解できないその意味を、しかし俺は確かに理解していた。直感的に分かっていたのかもしれない。昼に聞いた、マゼンダの解説を思い出す。
 知性ある生物が精霊と呼ぶ存在。飛翔の地の主。風を司る者。風そのもの。

 俺がずっと感じていたのは、彼女への畏怖だった。

 動けない俺をよそに、風の精霊は指輪から手を離すと、宝物を抱くように彼女の胴に腕を回した。よくクロウがテミに対して同じことをしていた。さすがにリンも何かを感じ取ったらしく、戸惑いながら揺れた視線が左手の指輪に気付いた。

「何やこれ、さっきまで付けてへんかったのに」

 ブルースか? と呑気に問う。突然現れた風の精霊もそうだが、リンの態度も、少しおかしい気がする。随分無警戒というか、鈍すぎるというか。返答もしない俺に違和感を持つ様子も無く、焚火の光に指輪をかざして頬を緩めた。

「ふふ、何か、お嫁さんの指みたいな気するなぁ」
「あ! お嫁さん、確かにぴったりかも! ずっと一緒にいる 子のことなんでしょ?」

 後者の言葉は勿論風の精霊だ。えへへ、と屈託の無いその顔に似合わない言葉を、昼間のルファが言っていた。……生贄。

「リンから、離れろ」

 精一杯の気迫で風の精霊を睨む。右手は気取られないようゆっくりと矢筒に伸ばす。畏怖の感情は、危機感が多少打ち消してくれた。

「やだよー。私、この子を連れてくの。嫌なことなんてぜーんぶ忘れちゃうくらい、大事にするから、ね?」

 ざっけんな! と叫ぶと、リンがびくりと肩を震わせる。

「ブルース、ほんまにどうしたん……? 顔、怖い」

 言い終わる前にその腕を掴んで引き寄せる。わわ、と言いながら顔を赤らめた彼女を連れていかせまいと左腕を肩に回す。リンを奪われた風の精霊がむっとした顔をする。次彼女に触れてみろ、精霊だろうと戦ってやる。右手には既に矢を握り締めている。

「リン、帰り道の途中で山あいの村に寄って、墓参りをするんだよな。行かなきゃいけない所、他にもあるんだろ?」

 だから連れて行かせなんてしない。そんな意思を込めた言葉だったのだが。

「やまあいの、むら? ……何の話や?」

 腕の中の彼女がきょとんとした顔で俺を見上げる。本当に分からない、という表情だった。唖然とした俺の腕から力が抜ける。その隙を突いて、風の精霊がリンの左手をとる。指輪が輝き、旋風と共にリンの身体が浮き上がった。我に返った俺が動くより早く、彼女とその手を握る風の精霊は俺の手が絶対に届かない高度まで上昇してしまう。さすがにこれにはリンも焦った顔で俺の名前を呼んだ。

「リン、絶対に動くな!」

 転がっていた弓を掴む。矢をつがえ、弦を引く。失敗は許されない。息と共に雑念が吐き出されていく。狙いが合った瞬間、腕の緊張を解き、矢と弦から手を放す。無駄な力みも弛緩も無い、この状況に見合わない完璧な一射だった。放たれた矢は風切り音と共にリンの背後の風の精霊、その眉間を貫き夜空に消える。

「……わあ、すっごい! こんなに正確に撃てるの、魔物を含 めてもほとんどいないよ!」

 しかし、風の精霊にそれを気にする様子は無い。矢が通り過ぎた箇所は少しの間雲の切れ目のような穴が開いていたものの、あっという間に塞がってしまった。……流石風というべきか、物理攻撃が効きにくい、下手をすれば微塵も効かないかもしれない。それなら毒は……微妙としか言いようがない。

「ブルース! これ、どうなっとるん!?」

 リンが泣きそうな顔で叫んだ。彼女は今、三階建ての家くらいの高さにいる。風の精霊が彼女を落とすことはないと思うが、見えていない彼女からしたらその状況で何も出来ないのは恐怖でしかないだろう。まして、戦いでもないのに死にそうになる覚悟なんて、俺だってしていない。

「……あれ、泣かないで?」

 自分が原因だと分かっていないのか、風の精霊の笑顔が僅かに曇る。……何だろうか。見たことがある、気がする。
 風の精霊は俺を意に介さず――実際その必要もないんだろう――リンの顔を見つめている。何も出来ず唇を噛む俺をよそに、彼女は合点がいったように、そっか! と言った。

「まだ何か、嫌なことがあるんだね? いいよ、忘れさせたげる! 他の皆も、寂しくないようにしてあげるよ!」

 風の精霊が、芝居のように両腕を大きく広げ、目を閉じる。彼女の口から流れ出る言葉は、やはり意味が分からない。しかし、何かの魔法であろうことは、張り詰めだした空気で分かった。避けるか耐えるべく身構える。

「――『エフロレッセンス』!」

 一陣の風が、俺の右耳から左耳へ駆け抜けていった、そんな感覚がした。自分の頭の、大切な何かがさらさらと崩れていく。岩や建物が風化するみたいに。無くなっていく。何が? いや、それよりも、俺にはもっと大事なことが。
 少女を連れて飛んで行こうとする風の精霊を追う。少女……リンだ。どうして名前が出て来なかった? とにかく追わなければ。もっと取り返しのつかないことになる前に。

「リン! くそ、待ちやがれ!」

 風の精霊が振り向いた。気持ち悪いくらいの笑顔で、彼女は右腕を振った。


 ブルースが襲われていた異様な畏怖の感覚は、少し離れた場所で二つ目のテントを張っていた残りの八人も直撃し、団欒をパニックに陥れた。突然マゼンダとテミが青白い顔のまま動けなくなり、ルファは卒倒しかけたところをミドリに支えられ、ティンクは翅の力を失い、クロウは血の気を失った顔で妹を抱きしめ、大きな影響を感じなかった三人も、所謂嫌な予感に襲われていた。
 停止しかけていたブロントの思考を動かしたのは、テントを吹き飛ばさんばかりに外で吹き荒れた烈風だった。目に鋭い光が宿る。勇者、そして隊長を務める者の目だ。

「外を見てくる。ジルバとミドリは、ここで皆を頼む」

 そう言い残し、ランタンを手に取って外へ出る。焚火は消えてしまったようで、辺りは完全な漆黒に包まれていた。左手にランタンを持ち、右手は剣の柄に添えて、そろりそろりと前へ進む。外ではブルースが見張りをしていた。焚火が消えたままということは、彼は手が離せない状況にいるか、そもそも付近にいないか、動けない状態か、あるいは。
 最悪の想像を振り払う。たとえ近距離戦になったとしても、彼は並の旅人や兵士より遥かに強い。それこそ魔王相手でも、警戒の声一つ出せずに死ぬことは有り得ない。不意打ちだってそうそう食らう奴じゃない。

 暗闇を凝視していた目が、目立つ水色を捉えた。暗闇に浮かぶ後ろ髪。ゆらゆらと遠ざかっていく。ブルースだ。名前を呼びながら駆け寄る。彼は振り返りもしない。
 近寄ってようやく把握できた彼の状態は、最悪ではないが、それに近かった。彼の右足はひきずられ、左腕はその手に弓を握ったまま、力無く垂れている。体のあちこちに痣があるものの切り傷は見当たらず、鈍器、あるいは体術による傷だろうと推測した。脳震盪を起こしているのか焦点の合わない目で虚空を見つめ、今にも倒れこみそうな足取りで前へ歩いていく。駆け寄りその肩を掴んでも、ブロントの存在には一切気付いていないようだ。

「ブルース! 何があったんだ、いやまず回復を――」
「ま、て……おれは、まだ、たた、かえ、る……」

 右肩を掴む力を強め、もう一度名前を叫ぶ。ようやくブロントの存在を認識した彼は、相変わらずの目と口調で、はなせ、と言った。

「おわない、と、つれて、かれ、る、りん、が」
「その身体じゃ無理だ」

 尚も進もうとする彼を強引に抱え、仲間達の許に戻る。しばらくはうわごとのように、はなせ、りんが、と続いていた声も、テントに入る時には、気を失ったのか止まった。まだ青い顔をしながらも冷静さを取り戻していた仲間達が、ブルースの状態を見た途端に各々驚愕を見せる。悲鳴を上げながらテミとティンクが杖をかざし、クロウ、ミドリ、ジルバは武器を構えながら、ブロントの説明を待っていた。

「僕が見つけた時にはこの状態で、意識はまだあった。弓を持っていたから、何者かと交戦していたのは間違いない。かなり重度の脳震盪みたいで、状況は聞き出せなかった。追いかけようとしていたから、敵は怪我を負わせて逃げたみたいだ。そちらの情報は殆ど無い。ただ、怪我の状態から、刃物や魔導書は持ってないと思う。恐らくは鈍器か体術だ」
「逃げた先は? 足跡も無かったのか」
「無かった。痕跡を消して行ったか、空を逃げたんだと思う」

 追跡する手段が無いと聞いて、ミドリの舌打ちが響いた。

「だとしてもだ。ついさっきの嫌な感じ、あれが関係あるんじゃねえのか? ルファ、どうにか感知したり出来ないのかよ」
「もう出来てますよ」

 細い眉を歪めて、忌々しげにルファが言い放つ。

「あの気配と魔力は、風の精霊のものです。……ブルースさんを攻撃したのかは分かりませんが」

 途端、ほぼ全員が息を吞んだ。唯一困惑した顔のジルバが問う。

「ここの主のことか? ……どうした、皆この世の終わりみたいな顔をして」
「……何を考えてるか分からない」

 ぽつりとクロウが語る。

「他の精霊は、人や魔物に祝福を与える。個人に与えられる場合は、加護とも言うけど。代わりに、祝福された生物は、その精霊を主として従う。それが、俺達と精霊の暗黙のルール。他にも細かい束縛があるらしいけど、ともかく教会が光の精霊を祀っているのもそういう理由」
「お、おう」

 魔法にも信仰にも疎いジルバにとっては初めて聞く話だったらしい。聞き漏らしがないようにと兜を外した。

「闇の精霊は大部分の魔物。大地の精霊はエルフとアマゾネス。炎と水の眷属は、大部分が生存競争に負けて滅んでる。今も残ってるのは、炎の精霊はウィスプ。……一説には、ガーゴイルやスライムベスも眷属だと言われてるけど、確かじゃない。水の精霊はキラースネーク……厳密には、元々水の精霊の眷属だった生物の子孫であって眷属そのものじゃないらしい。それで、光の精霊は俺達人間。それで全部」
「……ちょっと待て、風の精霊はどこに行った?」
「風の精霊に眷属はいない。だから、風の精霊は何にも縛られない。何をするかも分からない。精霊魔具……ジルバが付けてる疾風の指輪や天満の靴みたいな装備を生み出してみたり、飛翔の地のように恩恵を与えることもあれば、突然大嵐を起こすこともある。……魔法や精霊にある程度詳しい人間には常識」

 無知を責めるようなクロウの視線と言葉に、悪かったな、と微かな苛立ちを含む声でジルバが返した。

「勇者や魔王に深く関わっている以上、自分の専門外だったとしても精霊について知っておくべき。大体俺は何回も――」
「言っておくが、ブルースが起きていたら俺と同じ反応をしたと思うぞ? お前があいつに小言を言っているところなど一回も見たことがないが、単に俺が気に入らないからではないのか?」

 反論しようとクロウが口を開いた瞬間、二人の頭に小石がぶつかった。ティンクの魔導書を拝借したマゼンダが、次は雷を落とすわよ、と凄む。

「喧嘩はいつでも出来るでしょ。それより、ブルースを襲った正体が分からないままだけど、どうするつもり?」
「……夜に動くのは危険だ。明日、ブルースの意識が戻ったら、僕とクロウ、ティンクでもう一度痕跡を探しに行く。すぐ戻って来るつもりだが、念のためティンクはクロウの服の中に隠れておいてくれ。残りはここで待機。何かあったらすぐ移動できるように、荷物は纏めておく。どっちの組も、異変があったら叫ぶかその場の全員でもう片方に合流すること。相手が風の精霊にしろ魔物にしろ、相当強力なはずだ。間違っても、一人にはならないように。……言いたいことがある者はいるか」

 静まり返った空気に、はい、と静かな声が響く。テミが杖を持っていない左手を挙げていた。

「いくらすぐ戻るとしても、クロウ達の人数が少な過ぎると思うのです。残る側も、七人もいる必要はないでしょうし、指揮官がいない状態での大人数は、むしろ混乱する可能性があります」

確かにそうだな、とブロントが考え込む。普段の軽さは欠片も無い。

「残る側の指揮はジルバに任せる。向かう側については、相手も分からない状態で不意打ちを喰らう可能性がある以上、魔法組が来るのは危険だ。だから、来るのは隠れられるティンクだけにしたい。ミドリを連れて行って、残る側の前衛がジルバだけになるのもまずいだろ? ……ブルースの状態によっては、連れて行くつもりだ。その場合、四人と五人で丁度いい」
「五人?」

 テミが首を傾げた。

「僕達が全員で『九人』。そこから僕、ブルース、ティンク、クロウが抜けて五人だろ?」

 ジルバとミドリが頷く。マゼンダとクロウが少し躊躇いながらも合意する。ルファとティンクが目を剝いた。まさか、とルファが小さく呟く。嘘、とティンク。しかし、それに気付く者はいなかった。

「……そうですね。数え間違えたのでしょうか……?」

 確かに一人少ない気がしたのですけれど、と独り言つ。それを掻き消すようにブロントが手を叩き、じゃあ見張りを決めようか、と明るい声を作る。

「……」

 ティンクとルファが顔を見合わせていた。


 つう、と水滴が頬を垂れる。若草の匂いが肺を満たしている。
 ……何を、していたんだっけ?
 ぼんやりとした景色の中を歩いている。夢? 多分そうだ。現実だったら、さすがに歩く理由くらい覚えているだろう。また、水滴が頬を伝う。それを拭おうとして、右手に何かを掴んでいることに気付いた。何かではない。手だ。誰かと手を繋いでいる。……誰と?
 確かめようと彼女の方を向こうとする。……彼女。そう、彼女だ。

「――――」

 確かに俺は名前を呼んだと思う。口に馴染んだ、幸せな響き。
 風が吹いて、足元の草がたなびいた。
 目線の先に、彼女はいない。

「……あ……?」

 空っぽの手を見つめる。ぼやけていた視界は、いつの間にかくっきりとしていた。そこで初めて俺は、あの煩わしい雫の出所が自分の目だったと気付いた。
 若々しかった草原は寂寥とした荒野になっていた。俺は手を睨みながら、一人で一体何をしていたんだったか。一人? 誰かがそこにいた気がする。空気が乾いている。目を瞑ると、すっかり乾燥してしまったのか鋭い痛みが走った。
 気付けば草は跡形も無くなっている。空から降り注ぐ冷たい白色が、赤茶けた地面を覆っていく。俺は何をしていた? ……何でもいいか。
 雪は降り積もっていく。既に足首まで埋まっていた。最早俺以外の色が見当たらない。何もかもが純白に包まれたこの景色の中に、随分前からいたような気がする。……いや、ここから出たことがあっただろうか。
 足先の感覚はとっくに消えた。立っている理由も無い気がして、背中から倒れこんだ。刺すような冷気はすぐに消える。しんしんと積もる雪は、俺の上面もゆっくりと覆っていく。

「……お休み」

 誰に言うでもなく呟いた。いや、多分俺に言ったんだろう。


「――した! 起きましたよ!」

 もう朝らしい。明るい空間に少女の声が響く。……テミの声だ。ぼやけた視界に金色が二つ。一つがテミで、もう一つはブロントだ。口を綻ばせて、二人共同じ表情をしていた。中々珍しい寝起きの状況だ。ところで、どうしてテミは大回復の杖を俺に使っているんだろうか。……そもそも人の起床を報告して彼女はどうするんだ?

「……おはよう……?」

 体を起こす。体のあちこちが痛んだ。寝違えたにしては患部が多過ぎる。戦闘でヘマをして、回復を受けたものの記憶が少し飛んだ、というところだろうか。何度か誰かがこの状態になったのを見たことがある。……誰か?

「……リン?」

 口から零れた音の意味が分からなかった。ただ、数え切れないくらい口にした音である気がする。その二音を口の中で転がしていると、テミが眉尻を下げながら杖を掲げた。どうやら、まだ意識障害が残っていると勘違いしていたようだ。大丈夫だ、と手を振って見せると、彼女はゆっくりと杖を下ろした。

「……本当に大丈夫ですか? 意識ははっきりしていますか? 何があったか思い出せますか?」
「意識はいつも通りだ、多分。何があったんだったか……」

 頭を掻きながら記憶を探る。脳裏に誰かの笑顔が浮かんでは消えるが、誰だったか思い出せない。ようやく見えたのは、それらとは全く違う、人かも分からない存在の笑顔だった。

「あー、何か、真っ白くて髪が青い、女……っぽいのと戦ってたんだ。風の精霊とか言ってた」

 それを聞いたテミとブロントの顔に皺が刻まれる。

「理由は思い出せる?」
「理由……いや、分からん」

 俺が、少なくとも今の俺が理由を知らないことはすぐに分かった。それを探ってすぐ、記憶にぽっかりと穴が開いている感覚があったからだ。経緯は不明だが、地面に叩きつけられたことは憶えているので、その衝撃で吹っ飛んだんだろう。何にしても、分からないものを考え続けてもしょうがない。
 ……しょうがない、そのはずなんだが。何故か、目を背けてはいけない気がする。開いた穴が大きすぎる、そんな気がする。

「ブルース?」

 ブロントが俺の顔を覗き込んでいた。彼の快晴を閉じ込めた目が、うっすらと滲む。朧げに重なったのは、俺の知らない大きな瞳。黒い睫毛に縁どられた瞳は、俺が瞬いた瞬間に消えてしまった。あ、と特に意味の無い音が声帯から漏れる。心臓が毟り取られたみたいに痛んだ。反射的に両手で胸の辺りの服を握り締める。布地越しに伝わる早鐘に痛みを抑える力は無い。痛い、苦しい、一体何が?

「まだ、痛みますか?」

 回復魔法特有の温かさが体を包む。輝く杖を片手に俺を覗く彼女の表情は、表情は?
 下がり続けている眉尻、決して良いとは言えない血色、伏せられがちな目。俺が起きた時の、二人の顔。これらの意味を、俺は知っていたはずだ。誰かが、教えてくれたはずなんだ。……誰かが。ずっと、隣で。

 リン。

 今度も意味は分からなかった。でも、大事なことだという確信があった。

『大事ってのは、無くしたらあかんってことや』

 誰かの声が頭に響く。突き動かされるように、隣に置かれていた弓と矢筒、そしてグローブを掴む。旅を始めた時と違うグローブ。外へと走り出しながらはめた瞬間、俺にそれを差し出す誰かの姿が浮かんだ。暗い空と対照的に、周囲には灯りが吊り下がっている。新品のグローブを持つ誰かの顔は、逆光になって見えない。違う。俺は確かに、その顔を見ていた。忘れても尚俺の中にこびりつくくらい、いつも俺は見ていた。
 踏み出した右足にはまだ違和感がある。回復魔法を唱えた。杖無しで戦闘中に使えたものではないが、時間があればそれなりに有用だと、そんな話をしたことがある。戦い方の話。魔法の話。訪れた街の話。沢山、沢山あった。

 テントから飛び出した俺を見て、剣の手入れをしていたクロウが目を見開いた。頭の上にはティンクが乗っている。その隣ではルファが氷の書を開いていた。怪我は大丈夫なのか等々の声を無視して、風の精霊が飛んで行った方向へ走る。昨晩の記憶は少しづつ戻ってきていた。橙の服を着た少女を抱えて飛び去って行く精霊の姿も、自分がどんな負け方をしたのかも。

「ストーップ!」

 耳元で甲高い叫び声。思わずふらつきかけて足を止める。誰の声かは考えなくても分かる。ティンクだ。

「俺の耳壊す気か……?」
「だって、こうでもしないと止まらないでしょ?」
「分かってんなら止めんなよ」

 再び走り出そうとすると、あっこら! という声と共に頭上から重たいものが降ってきた。……俺、一応頭を強打してたんだけど。
 降ってきたものの正体は氷の書だ。勿論ルファのである。ご丁寧にも署名付きだ。

「持って行って」

 攻撃魔法はからっきしだぞ? と言っても彼女が折れる様子はない。小さな体でどうやって持って来たのか、懐から疾風の指輪と知力の髪飾りまで取り出した。持ち主達はどうしたのか尋ねると、氷の書「は」借りてきた、と。ジルバとミドリの拳骨が落ちる未来が見える。その行動の理由を問うと。

「思い出したんでしょ」
「……分からん」

 全部があやふやで、ただ忘れたことだけは分かっていて。そう言うと彼女は、十分だよ、と答えた。

「お前は分かるのか?」

 分かるとも分からないとも言えるよ、と彼女は言葉を濁した。

「まだ存在は憶えてるの。でも、時間の問題。ルファはほとんど忘れちゃってて、私も、もう名前も思い出せない。確かに彼女がいた。もうそれだけ。ごめんね」

 俺が彼女について知りたいが故の質問だと見抜かれていたらしい。代わりに付いてきてくれないかと問うが、私がいた方が邪魔になるよ、と彼女は俯いた。何故? 私達じゃ動くことも出来ないの、彼女をお願い。そう言って、彼女は俺から離れた。その翅が陰って見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。


 さあ、と涼しい風が吹いた。足元の草がたなびく。ふと、今朝の夢を思い出した。あの草原に似ている気がする。
 ここの全貌をずっと把握していなかった。飛翔の地は、山に囲まれた高原だ。俺達が野営をしていた場所は低木が茂る森と草原の境目で、飛翔の地の中では比較的低所にあった。森が発達する限界高度がある、と聞いたことがあるが、丁度その高さだったのだろう。

 そして、昨日風の精霊が向かった先、俺が今辿り着いた場所。
 野営地が遥か下に見える。恐らく、飛翔の地で最も高い場所。テーブルのように丸い平地に、図鑑の挿絵でしか見たことがなかった植物が生い茂っていた。本の中にすら存在しない花も、慎ましやかに揺れている。
 「全ての風がここより出ずる」という謳い文句に相応しく、風は吹きやむことがなく、せわしなくその向きを変える。その風に晒され続けたからだろうか。草に交じって随分脆く見える石材が覗く。文字らしき溝が入っているもの、絵のようなへこみがあるもの、柱の残骸。
 そして円の中心にある、古びた祭壇。その上の大理石で作られた小さいテーブルと二つの椅子。微笑みながらティーカップ片手に談笑を交わす二人の少女。片方は風の精霊だ。

「……見つけた」

 もう片方の、橙の服を着た黒髪の少女が目に飛び込んだ瞬間、目を覚ました瞬間から俺の中にあった空白の正体を悟った。完全に調子を取り戻した両足で大地を蹴る。指輪の効果だろう。身体が羽のように軽い。
 気配を感じ取ったのか、二人が俺の方を向いた。風の精霊が目を輝かせる。子供みたいな笑顔で彼女が振り上げた両手に、目に見えない何かが集まっていく。胸ポケットに刺した知力の髪飾りが警告するように瞬いた。

「また遊んでくれるんだよね!」

 今度はもっと付いてきてよ! 昨晩と寸分違わない無邪気な声と共に、その手が振り下ろされた。たちまち、唸り声にも似た音と共に強風が俺を襲う。前回は何も出来ずに吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。その後はブロントが見た通りだ。考え無しに突っ走ってきたことを後悔しかけ、それでもと持っている手段を全て反芻する。
 弓矢、自分の身体、非常用の短刀、疾風の指輪、速度の遅い回復魔法と解毒魔法、風である彼女に効くのかも分からない毒魔法、物理型の俺には縁の無い知力の髪飾りと氷の書。
 唇を噛む。一番ましな選択肢ですら希望は薄いが、何もせず同じ轍を踏んでやる訳にはいかない。踏ん張っている両足は既に浮きかけている。

「……アイスッ!」

 何でもいいから起こりやがれ、と右手を前方にかざして叫ぶ。仲間達の真似事は予想外に上手くいった。麻紐で背中に括り付けた氷の書が冷気を放ち、同時に俺の中で魔力が削れる気配。冷気は背中から右腕を伝い、空気中に噴き出して俺より僅かに大きい氷の壁を作り上げた。深く考えている暇は無い。壁に隠れて風の直撃から逃れる。透明な壁の向こうで、風の精霊がその笑みを一層深める。もう一人の少女の表情は屈折していて上手く読み取れない。
 風の勢いが弱まる。役目を終えた壁が砕け散った。ようやく探していた顔をしっかりと見られる。青空色の瞳は驚愕で丸く、俺が誰なのか分からないのだろう、口はぽかんと半開きになっている。認識されていないことについては、俺も彼女を忘れていたのでお相子だ。……そうは言っても、少し、嫌だ。

「ふふ。ねえ、私、君のこともすっごい欲しいな。『白華』を自力で思い出されたのは初めて! どうやって思い出したの? 魔法? 気合? それとも、私が知らないだけで、水ちゃんとこの子はこれに強いの?」
「……残念ながら、思い出してねぇよ。起きてからずっと、曖昧なままだ。でもな」

 取り出した矢の先を彼女に向ける。

「まあいいかで済ませるには、俺の中身が無くなりすぎたんだ」

 ……いや。元々真っ白だった場所を、彼女が埋めてくれてたんだろう。必ず、必ず取り戻す。

「何だってしてやる。彼女を帰せ」
「……何をするかは、分かってるんじゃない?」

 穏便に帰す気は一切無い。そういうことらしい。爽やかだった風に、ひりついた冷たさが混じった。
 矢をつがえた俺を見て、風の精霊がにんまりと笑みを浮かべる。彼女が短く何かを唱えると、少女の周囲に薄緑色の膜のようなものが発生した。防壁のようなものだろうか。だとしたら流れ弾の心配が無くなる。代わりに、風の精霊も少女に気兼ねなく全力を出せる、ということになるが、そこは俺の根性の見せ所だ。
 弓を引き絞る。ただの矢が効かないことは、昨日でよく分かった。だが、今みたいに魔法を組み合わせればどうだ?

 魔法のイメージを、背中の氷の書から魔力が矢に集まる映像を頭に描く。再び発生した冷気が矢を包み、ぴき、ぴきと甲高い音と共に矢尻から氷に包まれていく。これだけでは足りない。もっと、もっと。
 俺の思考に答えるように、弓の周りに青白い光の球が六つ浮かんだ。それらは細長く伸び、先端が尖り――驚く俺の周りに、六本の青く輝く魔法の矢が生まれた。

「……最っ高……」

 風の精霊が舌なめずりをする。どこか恍惚とした顔で、彼女は磔のように腕を開いた。

「ふふ、すっごい嬉しいよ! 本気で遊んでくれる人、全然いないから――」

 最後まで聞く義理は無い。軌道をイメージしながらつがえた矢を放つと、魔法の矢もそれに追随して彼女に迫る。最初の一本、氷の矢は、やはりというべきか彼女の身体をすり抜けた。続く六本のうち、二本は俺が不慣れなためか軌道が逸れ、明後日の方向へ飛んで行く。一本は彼女を掠め、二本は彼女の魔法か、目の前で弾かれる。残った一本は、彼女の胴体から外れていたために対応が遅れたのだろう。足代わりの雲のような部分に突き立った。
 どうしたら彼女に傷を負わせられる? 雲のような体を吹き散らせばいいのか? それとも、凍らせて無理矢理実体化させようか?
 迷いは一瞬だった。詳細は分からないが、風の精霊やティンクの行動から察するに、俺は水属性らしい。なら、自分の属性で攻めてやる。
 突き立った矢が光と共に弾けた。青い光に包まれた部分が凍る。目測だが、矢尻の大きさプラス指二本分の範囲だろうか。凍った己の身体を見て、彼女は慌てるどころかうっとりとそこを撫でる。ぴん、と彼女が指で弾くと、凍った部分は砕け散った。そこが復活する様子は無い。

「雲ってね、実は水滴が集まってるんだ。だから凍らせられるの」

 よく出来ました! そう言うと、彼女は再び両手を掲げた。

「今度は全力でいくよ! 途中でへばったら、怒るからね!」

 彼女は自らを抱き締めるように腕を胸のあたりで組むと、俺に向かって猛然と突撃してきた。

「っ……アイス!」

 作り出した氷の壁に彼女がぶつかる。その直後、壁は鋭利な刃物で切られたようにバラバラになった。尚も止まらない彼女を、転がるように避ける。たなびく彼女の身体が掠めた左足に赤い線が浮き、たちまち血液が流れだした。不思議と痛みは無い。しかし、放っておくには出血量がやや多い。
 回復魔法を唱える。知力の髪飾りのお陰で、突撃の勢いのまま飛んで行った彼女が体勢を整える時には、辛うじて止血に成功していた。再び彼女が突進してくる。今度は俺も見ているだけではない。弓を引く。一射目よりも早く、俺の周りに魔法の矢が現れた。

行け。

 心の中で叫ぶと共に、矢のうち三本が彼女目がけて放たれた。一瞬遅れて、本物の矢と残りの数本を同じ軌道で放つ。
 最初の三本は、風の精霊の目の前で弾けた。その隙に入り込むように時間差で放った矢が迫る。矢を弾いた時に魔法が乱れたのか、彼女は迎撃せずにそれを躱した。二本が彼女の肩を浅く貫き凍らせる。僅かに勢いが鈍った彼女を、俺は前方斜め上に跳んで避けた。指輪の効果か通常よりも高く跳躍した俺の真下を彼女が通り過ぎる。彼女はくるりと俺に身体を向けると、組んでいた腕をまだ空中にいた俺に向けた。
 しまった、と思った時には強風が俺の身体を叩いている。反射的に目と胸部を守った両腕と、身体のがら空きだった部分に何本も線が走った。吹き飛ばされた方向がほぼ水平だったのが、不幸中の幸いだろうか。
 地面に衝突する。受け身が間に合わなかったら間違いなく気絶していた。勢いに逆らわず地面を転がり衝撃を殺す。弓は、曲がったり、無いとは思うが折れたりしないようにわざと手放した。

 回転が止まり、起き上がりながら状態を確認する。あの風、とりあえず鎌風と呼ぼうか。鎌風にはあまり貫通力が無いようで、胴体は服と肌が薄く裂けただけで、大した怪我ではない。服で止められるなら、飛び出した時に鎧も持ってくるべきだっただろうか。武器以外は起きた時のまま来てしまったため、防具と言えるのは比較的分厚い上着のみと、大変心許ない。あいつみたいに全身鎧なら無効化出来ただろうか? 魔法に対する抵抗力が低ければ意味がないかもしれないが……いや、変えられないことを考えても仕方がない。
 腕と足は、布地ごと引き裂かれたようで赤く濡れていた。放っておけば危険な出血量にも関わらず殆ど痛まない。確認しなければ気付かなかったかもしれない。回復を試みる。しかし、止血が終わる前に、風の精霊が舞うようにくるりと回った。その足元の草が細切れになっていく。また鎌風がくる。
 飛び退るようにその場から離れる。その判断は正しかったようで、俺が数瞬前までいた場所の草が土埃と共に吹き散らされた。突撃の時よりも強烈だ。抉れた地面が威力を物語っている。

 精霊を相手取る時点で分かり切っていたことだが、相当に俺の分が悪い。正攻法では、間違い無く俺の限界が先に来る。どうすれば――

 思考に気を取られ、一瞬意識が逸れた。それがいけなかった。足を踏み出した先で、土が吹き上がる。

「――――!」

 少女が、口を目一杯開いて何かを叫んだ。風の膜に遮られて聞こえない。聞こえるはずもなかった。

 身体が空を舞った。赤い飛沫が土片と混じる。時間感覚が引き延ばされ、世界がゆっくりと回っている。今にも泣きだしそうな彼女の顔が小さく見えた。助けられなかった。……助ける? 何で? ……誰を? さっきまで、憶えていたはずだ。思い出せ。失いたくないんだ。
 手を伸ばす。中指と薬指がどこかに行った、俺の左手。さすがに自分では治せない。――に後で頼まなければ。あれ、誰に頼むんだったか。……頼む相手。そんなのいたっけ?
 覗いた記憶は、どれもこれも白い染料をぶちまけたみたいな、何があるのかも分からないまだら模様だ。判別しようと触れた側から崩れていく。もうすぐ死ぬからだろうか? 地面に叩きつけられた時、俺は死んで、どの道全て消えるからだろうか?

 何て名前が付くのだろう。何も無くて、空っぽな気持ち。とても、寒々しい。この冷たさを、俺は知っている。ずっと、そこにいた。引っ張り出してくれる何かを、ずっと探していた。

「――!」

 橙色の少女が叫ぶ。聞こえない、けれど。きっと、何百回も聞いている。

『ブルース』

 俺を救った、彼女のまほう。


「……もう終わり?」

 彼女は、拍子抜けしたように呟いた。
 少年はぴくりとも動かない。力の抜けた肢体が、赤い水溜まりに浸っていく。遠目からでも分かる。致命傷だった。左足の膝から下が離れた所に落ちているし、右手も左手も指が何本か足りない。そして、身体の至る所に刻まれた赤い線と、溢れ出る液体。

「……水ちゃんに、怒られるな」

 側に寄る。胸が僅かに上下していた。辛うじて命を取り留めたらしい。尤も治療をしなければすぐに死んでしまうだろう。仲間達の許まで送ってやらなければ。

「つまんないなぁ」

 口調や態度と裏腹に、烈火のごとく燃えていたあの目を、意思を、もっと堪能したかった。持ち主の精神すらも壊しかねない、激情の輝きを。

「えーっと、足は、っと」

 膝から下を拾いに行く。手の指は……本人を送り返した後で、ゆっくり探そうか。大回復の杖があれば、多少時間が経った後でも繋げられるだろう。
 どうしてわざわざ自ら拾いに行ったのかは分からない。ただ、丁寧に扱ってあげなきゃ、と思ったのは確かだった。

 血に塗れたそれを抱えた、その瞬間。

 輝く矢が六本、その背中に突き立った。ぱん、と軽い音と共に弾ける。胸部が半ばまで凍り付いた。耳に届く風切り音と、身体を突き抜ける氷の矢。甲高い音と共に、彼女の胸の後ろ半分が、氷の結晶となって砕け散った。足が手から零れ落ちる。

「……!」

 無音の絶叫。痛みは無い。だが、自分という存在そのものが削り取られるような、言いようもない不快な感覚。それを塗り替える、湧き上がる興奮。戦える。彼はまだ、戦える!
 猟奇的な笑みを浮かばせて、彼女は振り向いた。目線の先では、今にも死にそうな少年が、生と執念にしがみついて立っている。欠けた左足には氷の義足が付いていた。全身の傷は、血が微かに滲む程度まで止血されている。あくまで止血で、マイナスがゼロになっただけだろう。彼が死線に立っていることに変わりはない。
 そして、その目には、煮えたぎるような闘志が――

 無い。

 意識を失った訳では無いようだ。視線はしっかりと風の精霊を捉えている。朦朧としている訳でもない。その足は、片方が氷の彫像であっても、大地を踏みしめている。では、何故?

「――だ」

 抑揚の無い声が放たれた。

「お前は、誰だ?」

 え? と困惑の音。動揺を狙う作戦? それとも、外傷による記憶の混乱? そこまで考えてから、自分を撃ち抜いた以上、敵としての認識はあるはずだと思い直す。

「いいから、戦おうよ」

 威嚇するように、あるいは戦闘を促すように、ブルースの側に生えていた草を刈り取る。緑の破片が舞う中で、彼は微動だにしない。

「たた、かう?」

 オウム返しの言葉。裏切られた期待に苛立ちを感じながら、彼女は再び風を集めた。

「そうだよ。君、何をしてでも取り戻すって言ってたでしょ? だから、ほら!」

 再び彼の周囲に風を巻き起こす。怒りをぶつけるように。

「戦えって言ってるの、ブルース! 私と、さっきみたいに、本気で! そんな態度の奴を薙ぎ倒したって、楽しくもなんともないでしょ!」

 反応は無い。意思も感情も無い、空虚な目。光の精霊が作っていた「機械」が、揃いも揃って同じ目をしていた。心の無い目。

「……『白華』?」

 記憶を風化させる、この場所でのみ使える彼女の魔法。戦闘中に発動させたつもりは無かったが、魔力を浴び続けて進行してしまったのだろうか。燃え立つあの情炎ですら、結局消えてしまったのだろうか。

「つまんない」

 もういいや、と。彼女は踵を返すと、祭壇へと飛んだ。リンを覆っていた防御魔法を解除する。その途端、彼女は風の精霊に殴りかかった。拳が純白の身体をすり抜ける。

「……リン?」
「どこにやったんや」

 獣の唸り声に似ていた。風の精霊を睨みつけた目から、涙がとめどなく流れ落ちる。

「ウチの記憶も、ブルースの記憶も! どこに、どこにやった! 返せ、返さんか!」
「え、で、でも」

 嫌な記憶なんて、いらないでしょ? その答えは、再び振り抜かれた拳だった。

「確かに嫌な記憶かもしれんわ。生きてて楽しい記憶だけなん て、そんなんありえん。ここにいる間は、何も辛いことなんて思い出さんかった。楽やったわ。でもなぁ!」

 再び拳が空を切る。

「戦うとるブルースを見て、思い出した。ウチは、あんたの言う嫌な記憶が、何より大事やった。全部忘れて空っぽになるくらいなら、全部抱えて苦しんどった方が遥かにええわ! あんたは、自分勝手に価値観を押し付けとるだけやないか!」
「……っこの……!」

 お気に入りで、大好きだったはずの彼女に、怒りが湧いた。それを反映して、周囲の風が渦巻き始める。リンは風の精霊を睨みつけたまま、恐れを抱く気配は露程も無い。
 ひゅ、と風切り音がした。魔法の矢が、身体の下部に刺さってる。振り向いた視界の端で、小さく弾けた。

ブルースが弓を構えていた。不完全な手で、虚ろな目で。

「何で……」

 その声に含まれていたのは、驚愕か、憤りか。ただ一つ分かるのは、断じて喜びではなかった。戦いの間、あれだけ風の精霊の中を占めていたというのに。

「何で、まだ戦えるの! もう何にも残ってないくせに!」

 鎌風が彼へ殺到する。しかし、切り裂かれたのは彼ではなかった。矢に気付いた時点で駆け出していたリンが、彼を庇っていた。

「……り、ん……」

 風に乗って、彼の声が聞こえる。がらんどうの空っぽになったくせに、まだ思い出すの? まだ戦うの?
 ゆっくりと二人に近付く。風の精霊が通った跡が、千切れた草となって続いていく。もういい。もういらない。こんなに腹が立つなら、さっさと壊しちゃえ。

「サイクロンッ!」

 掲げた手の上に、竜巻が発生する。

「まとめて消えて!」

 まともに目も開けない強風が、台地全てを包んだ。


 風が止んだ。

「……疲れた」

 身体のかなりの部分を失った上に、全力の魔法。精霊といえども、体力の限界は近い。

「……随分荒れちゃった」

 草原は、地面がひっくり返ったように茶色い土に覆われていた。言うまでもなく、先程の魔法が原因だ。

 ……さて、あの二人は?

 二人が立っていた場所に視線を向ける。そこには、人間の代わりに、深紅のドームが一つ。

「……何あれ」

 転がっていた石材を一つ、風に乗せてぶつけてみる。ドームは氷のように――破片が空中で消えていくのを見るに、本当に氷だったようだ――簡単に砕けた。その中には、意識を失ったブルースと、彼を抱きかかえて放心しているリン。血溜まりが消えている。あのドームは彼の血を基にして作られたのだろう。だが、ドームを作り、かつサイクロンに耐えるだけの魔力が、果たして彼にあったのか?

「……ああ、そっか」

 リンの目の前に浮く。風の精霊に気付くと、彼女はブルースを庇うように構えた。

「もういいよ」

 風を起こした。二人の身体がゆっくりと宙に浮く。

「帰って。記憶も、返してあげる。思い出したくなかったとか、言っても聞かないからね」

 リンの返事は聞かず、そのまま二人を仲間の許へ飛ばした。

「……あ、足、渡し忘れた」

まあいいか。どうせ吹き飛んだだろうし。呟くと、背後から声が聞こえた。

「ちゃんと守っておきましたよ」

 よく知る声だった。多分に棘が含まれていることを除けば。

「……水ちゃん。いつから見てたの? それに、あの赤いやつも作ってあげたんでしょ」

 あえて振り向かずに話す。彼女が鬼のような顔をしているであろうことは、想像に難くない。

「ほとんど最初からですよ。何も貴女だけがあの子達に興味津々な訳ではありません。それから、ほんの少し魔力を送ってあげましたが、あの障壁は彼の意思です」
「何にも分かってなかったのに?」
「あら、分かっていないのは貴女の方でしょう」

 ちゃぷちゃぷ、と水の精霊は風の精霊の隣に並ぶ。地面に染み込んでしまいそうなので手短に話しますよ、冗談めかした。

「貴女、感情を甘く見ていたでしょう?」
「……そんなことない。私にだってあるし、どんなものかは分かってるよ」
「いいえ、分かっていません」

 咎めるように、水の精霊は風の精霊の髪を凍らせた。

「彼を突き動かしたのは、貴女が大好きな喜や楽の感情ではな く、悲しみ、怒り、孤独……そういった、貴女が消そうとした感情です。自らにとって好ましい感情はすぐに消えてしまいますが、その感情が自らを深く抉れば抉るほど、その感情は精神に癒着して離れないのですよ。たとえ、その記憶が消えたとしても。むしろ、彼女の記憶……幸せな記憶が消されたからこそ、余計に孤独を意識するようになった」

 要するに、貴女は自ら自分に弓引く者を強くしたのです。そう言うと、彼女は愉快そうに笑った。

「何が面白いの」
「いえいえ。ただ、因果というものは興味深いと思っただけです」

貴女、彼が記憶を見失った時、不快で不快で仕方なかったでしょう? 見透かすように言う。

「どれだけ悦楽を求め、自由に振舞っても満たされない。空洞なのですよ、貴女の中も。そんな自分の本質を見ているようで、拒絶した。違いますか?」
「知らない」
「かつて空虚だった彼は、快も不快も、全ての感情を理解しようとしました。その結果彼は、自らを形成する全てを奪われても尚、失われないものを手に入れた。一方貴女は、快のみを求め続けた結果、満たされない貪欲さを持て余しています。……とても美しい、そして残酷な導きではありませんか? 強さも時間も全て優っている貴女が、自らの意思で捨てたもののせいで、彼が手に入れられたものを渇望し続けることになるなんて」

 ああ、そろそろ時間です。非常に良い悲劇でした、貴女が主人公の。そう言うと、彼女はとぷんと水音を響かせて地面に消えた。

風の精霊は、一人佇み続けていた。


 全身が酷く重い。頭の中では、割れんばかりに鐘が鳴り響いている。要するに、とても痛い。瞼は接着されたみたいだ。開いて身体を起こす気もしない。俺はどうしてこうなっているんだっけ。
 確か、飛翔の地にやって来た。見張りと片づけを押し付けられた。そこでリンが、攫われて。

 そうだ、リン。

 目を開く。起き上がろうとして転んだ。左膝が上手く動かない。無理矢理立ち上がろうとすると、巻かれた包帯に赤いものが滲んだ。そして再び転倒する。

 ……一度落ち着こう。

 俺がいるのは、布で仕切られた空間の中だ。恐らくはテントの中だろう。出口から見える外は暗い。夜だろうか。周囲を探った手が硬い物に触れる。なぞって形を確かめる。俺の弓だ。その隣には矢筒も置かれていた。中に矢は入っていない。
 段々と目が慣れてきた。テントの隅で転がっているのはジルバだろう。あの大柄なシルエットはそうそう間違えられるものではない。反対の隅にいるのは、マゼンダか? テミかもしれない。影になっていて髪が見えない。
 そして、俺の隣で毛布にくるまり繭になっているのが一人。体格から判断するに、ブロントではないと思う。少し迷った後、頭部がありそうな場所をめくった。黒い髪が覗く。
 どくん、と心臓が脈打った。黒髪なんて一人しかいないのに、確かめるのが怖い。もしも、もしも彼女じゃなかったら。

 深呼吸を一回。ゆっくりと毛布を外す。出てきた顔を見て、安堵に胸を撫で下ろした。泣いていたのか瞼が少し腫れぼったいが、リンだ。静かに寝息を立てている。ちゃんと、ここにいる。俺の、隣に。

 ――彼女は何処へ向かうのだろう?

 答えではない。俺の勝手な願望に過ぎないのかもしれない。だけど、もし叶うのなら。

「ずっと、隣にいてくれないかな」

 朝になったら、もう一度言うから。

 あちこちに包帯が巻かれた手で、毛布を元に戻す。彼女の無事を確認したら、急激に眠気が襲ってきた。寝ていた位置を少し彼女の方にずらす。倒れるように横たわると、勝手に瞼が下がってくる。閉じ切ってしまう前に、もう一度彼女を見た。

「お休み」

 そのまま、夢の世界へと旅立った。内容は憶えていないが、隣に彼女がいるのだから、幸せな夢だったに違いない。

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