匂い
花を焼くのに最高の日だった。
よく晴れた朝、風はない。今日は捗りそうね、と言いながらマゼンダは慣れた手つきで紫色の花弁を鍋に放り込んでいく。波打つ細長いそれが積み上がる様は、さながら炎のようだった。林檎色をした彼女の炎とは違う、妖しさを孕んだ色だ。
「そういえば。私の街、少し前に香水が流行ったのよね」
「へえ」
気の乗らない相槌を打てば、マゼンダも淡々とした調子で続ける。
「香水自体は普段から体臭を誤魔化すために使うけど、あの時は『愛の香水』なんて銘打っててね」
「胡散臭い名前だな。マゼンダが興味を持つなら、魔法を使った何かか?」
「別に、ただの香水よ。売り方を少し工夫しただけの」
話しながらも止まらない彼女の手が、鍋の上で円を描く。指が辿った軌跡が赤く輝き、中心から林檎色の雫が滴った。
「何種類も香水を売り出して、『同じ匂いの人が運命の相手』なんて言ってね。恋人探しの手段とか、恋人同士が同じものをつけるとかで、爆発的に流行ったの。同じ香りが続く間は愛が続く、とかいっちゃってね」
花弁の山に落ちた雫が輝き、一瞬で紫色の塊を赤い炎に変える。三十秒、と呟きながらブロントは小さな砂時計を返した。熟しきった果実のような臭いが辺りに立ち込み、つい鼻を覆う。
「でも、香水が被るなんて日常茶飯事だったわ。そりゃそうよね。街の人全員が違う種類の香水をつけるなんて不可能だもの」
「それで廃れたのか」
「それだけなら良かったんだけどね」
砂が落ちきった。すっかり灰になった鍋の中身に桃色の小さな花弁を加え、彼女はまた火を落とす。
「たまたま香水が被っただけの他人を運命だと勘違いして、最終的に刃傷沙汰になったとか。恋人の香水が偶然友達と同じだっただけで浮気を疑うとか。たった数ヶ月でとんでもない量のトラブルが起こったのよ」
くだらないでしょう、と笑う。頷けば、彼女は満足げに話を続けた。
「結局、人心を乱すって理由であの香水は廃止されたわ。その後も色々流行っては廃れていったみたいだけど、あそこまで大事になったのは『愛の香水』くらいね」
これでおしまい、と彼女は鍋に水を注いだ。
「さて、あとは煮立たせて濾して魔法で濃縮するだけ。風が吹くまでやるから……あと十五回くらいはできるかしら」
「何日分くらい作れそうなんだ?」
「大所帯になってきたからね、一ヶ月とちょっと」
二人が、厳密にはマゼンダが作っているのは魔物避けの薬で、香水のように使うだけで知性の低い魔物や野生動物が寄り付かなくなる優れものだ。紫色の猛毒の花を焼き、桃色の薬花の灰と併せることで中和するのだという。桃色の花は無臭に近いため、毒草の臭いのみがする液体ができるというわけだ。灰にも僅かに毒性があるため、彼女が花を焼くのは風がない日だけだった。
「足りなくなる前にまた作らなきゃいけないから、二十日くらいしたらまたやらなきゃね」
「次は代わろうか?」
「ありがたいけど、魔法が無いと濃縮がものすごく面倒よ? 私、この作業は結構好きだし。隣で駄弁ってるくらいでいいわ」
そう言いながら彼女は煮立った液体を丁寧に濾していく。
「それにしても、臭いがするだけで避けてくれるんだから便利よね。それだけ嗅覚が本能と深く結びついてるってことかしら……あ、ブロント、瓶用意しといて」
灰を取り除き透明になった液体が宙に浮き上がる。言われるままにこぶりな硝子瓶を差し出すと、液体はたちどころに縮み始めた。
「本能って観点からなら、あの香水も案外いい線いってたのかもね。ほら、好きな匂いが同じなら湧きそうじゃない。親近感とかそういうの」
雨粒より少し大きい程度にまで小さくなった液体が瓶の中へ滑り込む。きゅぽ、と音を立てて栓を閉める間に、彼女は次の花弁を取り出していた。
「第二陣、と」
彼女が呟き、紫が赤に包まれる。砂時計を返す。鼻腔を満たす甘ったるさに鼻を塞ぐ。ブロントはどうしてもこの臭いが苦手だった。それでも花を焼くたびに彼女に付き合うのは、話好きな彼女のためだけではない。
「マゼンダ、さっきの香水だけど」
「ん? ええ、あれがどうしたの」
「この花みたいな匂いの種類はあったのか」
「えぇ? 私、香水そのものには興味無かったんだけど……」
顔をしかめながらも律儀に記憶を探す彼女からは、染み付いた甘い匂いがする。魔物避けは討伐隊の全員が使っているが、それを製作しているのはマゼンダ一人だ。そのせいだろうか。ブロントにとってこの花の香りはマゼンダだった。魔物避け作りに付き合うようになった後は、どうやら自分からもこの花の香りがするらしい。
「あってもおかしくないかもね。花の匂いは種類が多かったし。これだってほら、入れ物次第じゃ香水として使えるんじゃない?」
試しにお洒落な小瓶でも使ってみましょうか、と笑う。
「それなら、次の街で買いに行こうか」
「いいわね。あ、私色付きのにしたいかも。旅の終わりまで使うんなら、装飾もこだわって選びたいわよね」
はしゃぐ彼女の手元では、既に濃縮までの工程を終えた液体がぷるぷると震えている。瓶の口を向ければあっという間に中に収まった。風がないおかげでどこにも行けない花の香りは、もう二人に染み付いてそうそう消えないのだろう。同じ香りが続く間は関係が続くと言うのなら、旅の間はきっと途切れないはずだ。
もうすぐ名実ともにお揃いの香水となる液体が、素朴な瓶の中で揺れていた。